[1:4] 魔王(おに)のいぬ間に……
1 ナマエ:泥禰亭 1999/7/17(土)23:21
お久しゅう御座います。泥禰亭で御座います。
1999 年七の月に魔王様が御多忙というのは、
なかなかに剣呑なお話で思わずニヤリとします。
もう既に夏期休暇に入っていらっしゃいますか?

とか書いていたら、
おわっ、gajaimo さんリバイバル。
任せろ兄者、蒸し返しでゴーだっ!
どーせ魔王様お忙しいので、他人の迷惑顧みずに書き逃げです。

と言うわけで、「国家=公のアホらしさ」を巡る議論を読んで思った事を、
今更ながら書き込んでみます。
システムと一緒にぶっ壊れた文書ファイルを手直ししながらの書き込み故、
多少読み難いかも知れません。あらかじめお詫び致します。

> gajaimo 様。国旗国歌に関しては、しばらく後で書き込みます。

2 ナマエ:泥禰亭 1999/7/17(土)23:23
> 私たちが想定する国家とは、近代国家でありましょう。

国家がずばりイコール近代国家というのは誤り。
新興国家や実験国家、また革命国家でない限り、
過去の尻尾は切れることなく続いているのです。
いや、新興国家ですら建国以前の過去を引きずっています。
「国家」と意識されないものの内にある「国家的なもの」を。

 > 国家統合のしるしとして国語が制定され、

国語は国家統合のしるしと言うよりも、国民軍設立の為でしょう。
割り切って言えば、理性から作られる「近代国民国家」とは、
最も効率的に「総力戦」を行う為の組織です。
国家がそればかりでないのは、もっぱら理性でない部分に負うのです。
これがまた、過去の尻尾というやつです。
従って、我々の意識する国家が近代国家で「しか」ないとすることは、
自分の住む国が兵営になることを止める原理を放擲することになりかねません。
(兵営国家を拒否する声はメディアにかまびすしいのに、
 修道院国家を否定する声はピヨとも聞こえないのは大変に不気味です。)

挑発的なことを言いましょう。
キリスト教というのは、イエスの思想であった段階では、
全世界にとって迷惑な宗教であり、歴史と文明を誤らせるものでした。
それがローマ教会やそれに屈した世俗ローマの手垢が付く事によって、
大変に毒性が薄まったのです。(以下弱毒化という言葉を使うかも。)
教会や議会(?)などというのは、教典を原理的に運用するよりも、
祖先から歴史から受け継いだ判断基準で、教典を捻じ曲げるもとい、
解釈する組織と言っていいからです。
近代国民国家も理性的(原理的)に運用すると剣呑なもので「しか」ないのですが、
過去の尻尾を「半ば意識的に努力して」引きずることによって、
かなりの部分を弱毒化できるのです。

 > 近代国家成立以前、たとえば日本においても、「わたしは日本人である」と
 > 無意識に前提があるような人はなく、「わたしは**村のなにべえだ」という
 > 論理の立てかたで自分を認識していました。

これは明らかに誤りです。
あまりにも間違っているので、私ですらレッテル張りの誘惑に駆られます。
この御意見、日本列島には庶民「しか」いないと主張なさっているかのようです。
中華帝国という強大な組織を常に意識せざるを得ない集団が
―――それが権力者であろうと民衆であろうと―――
日本列島には早くから存在しました。
そのような集団はやむにやまれず、あるいは自然と、
国家意識というか、国家意識に類する意識を生み出していました。
生み出していなければ、近代に直面した時、
日本はアイヌ集団やインディアン諸部族と同じ立場になっていたでしょう。
百歩譲って、アジアにある欧米植民地ぐらいの立場。
またこの意識は、原初的国家意識を育んだ集団の口承や文章が広まるにつれて、
庶民レベルにも浸透しつつありました。ただ明確に意識されなかっただけです。
確かに鳥も通わぬ陸の孤島であれば、gajaimo さんの仰るとおりと認めます。
また国家というシステムを横目で見ておきながら対応する意欲を持たなかった、
アイヌ集団や多くの中国北方の騎馬民族には、半分程度当てはまると認めます。

この引用に類する話で納得がいかないのは、
維新期の民衆は天皇のことなど知らなかった、という「伝説」です。
こんな事をまことしやかに触れ回る人は、
江戸時代末期の「庶民向け」版本を読んだ事がないのでしょう。
「庶民に」熱狂的な人気を誇るお芝居を見た事がないのでしょう。
版本を読めない大人は都市には少なかったのですが
(何しろ黄表紙はほとんど仮名書です。漢字には振り仮名が付いています)、
たとえ目に一丁字も無い人でも、お芝居を楽しんでいました。
お伽話風の版本には「わいわい天皇」とか「ひもかわ天皇」とか、
多分に茶化した形ですが礼儀正しく取り扱われた天皇が、意外に多く登場します。
多少高尚な小説に書かれた、崇徳天皇の祟り話は大変に人気がありました。
近松門左衛門を座付き作家にのし上げたお芝居が、
「用明天皇職人鑑(かがみ)」である事を考えてほしいものです。
これら書籍やお芝居は、参勤交代を通じて日の本六十余州に遍く広まっていました。
有名な維新の元勲は下級武士であるにも関わらず、
討幕運動以前は天皇を知らなかった、というエピソードが盛んに強調されますが、
はっきり言って特殊な例の過度な一般化です。
江戸後期に至っても、四書の素読を済ませたら後は家業の奉公三昧で、
全く本を読まない侍がほとんどというのは考えにくい事です。
ただこれらも先に書いたように、鳥も通わぬ陸の孤島には当てはまりません。
百歩譲って千歩を引いて、マンボ踊って妥協をしても、
城下町の住人なら、多くの人が天皇を知っていたと考えるべきでしょう。
明治の庶民の驚きは、天皇って何? ではなく、
天皇ってお話のキャラじゃないの? というほうが多かったと思われます。

話を戻して。
日本の場合、以上のような基礎があるので、
統合意識を持たせるのはそれほど強引な事ではありません。
少なくとも西洋の知性しか持たない学者さんが考えるような強引さとは異質です。
そしてその統合意識の原理が国家であるというのも、
幕末の日本列島においてはさして無理がありません。
(琉球においてでさえ!無理ではありません。
 アイヌ集団にはかなり無理を強いています。
 だから心の防衛機構が素朴な革命意識になりやすいのでしょう。
 申し訳ないことです。これこそオルタナティブを模索する契機となるでしょう。
 日本はオルタナティブを見つけるかなり有利な位置にありますぞっ。
 米国も有利ですけど、黒人か異教徒が大統領になれるようになるまで、
 無理でしょう。)
続く

3 ナマエ:gajaimo 1999/7/19(月)18:40
少しばかり意見を述べさせていただきます。

>国家がずばりイコール近代国家というのは誤り。
>新興国家や実験国家、また革命国家でない限り、
>過去の尻尾は切れることなく続いているのです。
>いや、新興国家ですら建国以前の過去を引きずっています。
>「国家」と意識されないものの内にある「国家的なもの」を。

もちろん、日本であれば、日本で、突如それまでの歴史的経緯を断絶して
近代国家が成立したとはとても考えにくく、その限りにおいて「ひきず
って」いるでしょう。
しかしながら、近代国家と、それ以前の国家は全く別ものであって、
それゆえ近代国家は歴史的(長い人間の過程においての、一部分)なのです。

>国語は国家統合のしるしと言うよりも、国民軍設立の為でしょう。
>割り切って言えば、理性から作られる「近代国民国家」とは、
>最も効率的に「総力戦」を行う為の組織です。
>国家がそればかりでないのは、もっぱら理性でない部分に負うのです。
>これがまた、過去の尻尾というやつです。
>従って、我々の意識する国家が近代国家で「しか」ないとすることは、
>自分の住む国が兵営になることを止める原理を放擲することになりかねません。
>(兵営国家を拒否する声はメディアにかまびすしいのに、
> 修道院国家を否定する声はピヨとも聞こえないのは大変に不気味です。)

国語の制定の一つの現象形態として、国民軍設立というために国語が制定された
のは、事実です。しかし、大事なのは「なぜ国民軍を設立せざるをえなかったの
か」という本質的な部分ですね。
もちろん、この問いで、世界各国で国民が創出され、植民地奪取の動きがにわか
に高まったからだ、というのは説明になっていません。同じように、「なぜたか
まったのか」という問いに帰着します。

>近代国民国家も理性的(原理的)に運用すると剣呑なもので「しか」ないのですが、
>過去の尻尾を「半ば意識的に努力して」引きずることによって、
>かなりの部分を弱毒化できるのです。

上に述べた意見をこの部分にも適用させていただきます。
歴史の発展は、それ以前の形態をすべて捨て去るものではなく、それを摂取して
発展していくものです。

> > 近代国家成立以前、たとえば日本においても、「わたしは日本人である」と
> > 無意識に前提があるような人はなく、「わたしは**村のなにべえだ」という
> > 論理の立てかたで自分を認識していました。
>これは明らかに誤りです。
>あまりにも間違っているので、私ですらレッテル張りの誘惑に駆られます。
>この御意見、日本列島には庶民「しか」いないと主張なさっているかのようです。
>中華帝国という強大な組織を常に意識せざるを得ない集団が
>―――それが権力者であろうと民衆であろうと―――
>日本列島には早くから存在しました。
>そのような集団はやむにやまれず、あるいは自然と、
>国家意識というか、国家意識に類する意識を生み出していました。

もちろん、ある種の(近代的な)国家意識を持っていた集団を否定するもの
ではありません。
しかしながら、私は、近代国家を軸にして議論を進めています。すなわち、近代
的な「国民」は、近代以前には存在していなかったわけで、近代的な国家という
大きなものに自らのアイデンティティを依拠するような民衆は、現代と比べて
絶対的にも相対的にも少なかったのです。
中華帝国にしても同様ですが、民衆部分に、「国家のために」とか、「国家が
あるからこそ」などという意識はありませんでした。

>この引用に類する話で納得がいかないのは、
>維新期の民衆は天皇のことなど知らなかった、という「伝説」です。
>こんな事をまことしやかに触れ回る人は、
>江戸時代末期の「庶民向け」版本を読んだ事がないのでしょう。
>「庶民に」熱狂的な人気を誇るお芝居を見た事がないのでしょう。
>版本を読めない大人は都市には少なかったのですが
>(何しろ黄表紙はほとんど仮名書です。漢字には振り仮名が付いています)、
>たとえ目に一丁字も無い人でも、お芝居を楽しんでいました。
>お伽話風の版本には「わいわい天皇」とか「ひもかわ天皇」とか、
>多分に茶化した形ですが礼儀正しく取り扱われた天皇が、意外に多く登場します。
>多少高尚な小説に書かれた、崇徳天皇の祟り話は大変に人気がありました。
>近松門左衛門を座付き作家にのし上げたお芝居が、
>「用明天皇職人鑑(かがみ)」である事を考えてほしいものです。
>これら書籍やお芝居は、参勤交代を通じて日の本六十余州に遍く広まっていました。
>有名な維新の元勲は下級武士であるにも関わらず、
>討幕運動以前は天皇を知らなかった、というエピソードが盛んに強調されますが、
>はっきり言って特殊な例の過度な一般化です。
>江戸後期に至っても、四書の素読を済ませたら後は家業の奉公三昧で、
>全く本を読まない侍がほとんどというのは考えにくい事です。
>ただこれらも先に書いたように、鳥も通わぬ陸の孤島には当てはまりません。
>百歩譲って千歩を引いて、マンボ踊って妥協をしても、
>城下町の住人なら、多くの人が天皇を知っていたと考えるべきでしょう。
>明治の庶民の驚きは、天皇って何? ではなく、
>天皇ってお話のキャラじゃないの? というほうが多かったと思われます。

その限りで、天皇に対する意識はあったにせよ、近代的な天皇崇拝はやはり
無かったのであって、天皇のために死ぬ、などという現象が起こりようはず
がありません。
天皇の存在を知っている人が(しかも一部)いたにしても、それは民衆部分
まで及ぶ国家統合の術にはなっていませんでした。
つまり、天皇の存在はその程度でしかなくて、それが初めてすべての人民に
崇敬を抱くべき存在、日本国の統合の象徴としての存在、として意識されだ
したのは、明治になってから、政府によるイデオロギー統制がはじまってから
ですね。

>話を戻して。
>日本の場合、以上のような基礎があるので、
>統合意識を持たせるのはそれほど強引な事ではありません。
>少なくとも西洋の知性しか持たない学者さんが考えるような強引さとは異質です。
>そしてその統合意識の原理が国家であるというのも、
>幕末の日本列島においてはさして無理がありません。

ムリが無いのでしょうか。
たとえば、明治政府は、農村において、天皇を中心とした近代国家を創るために、
それまでの伝統習俗を力でもって押さえつけました(夜這いの禁止など)。教育勅
語もしてもそうですし「御真影」にしてもそうです。
「御真影」や教育勅語を発布しなければならないのに、どうして、ムリがなかった
のでしょう。(御真影など、1700年代であれば、踏みつけられて終わっていたのが
燃やせば自刃などといったイデオロギーがまかり通ったのか、それが大事です。それ
自体を非難するわけではなく、そうしたイデオロギー操作が必要だったのはなぜか
ということが大事なのです)

4 ナマエ:泥禰亭 1999/7/17(土)23:24
 > あくまで「国家(=近代国家)」は歴史的であり、
 > 幻想にすぎないものであるはずです。

その通りです。近代国家は近代以前を引きずっているのです。
ですから、歴史の数だけ近代国家の形(組織論としての国体)があるのです。
それをヨーロッパ産の近代国民国家「のみ」を国家と考えるからおかしな事になります。
かの地の近代国民国家の成立は、
多くをフランス革命に負っているというのが私の考えです。
そこでは過去の尻尾を意識的に努力して断ち切ろうとしました。
そうして出来たのが「我々の意識する近代国民国家」の芽です。
gajaimo さんのお考えになる国家は、ただ歴史的というよりも、
反歴史的、という形で歴史的であるように窺えます。
ですから冒頭で仰った「私たちが想定する国家とは、近代国家でありましょう」と、
「あくまで「国家(=近代国家)」は歴史的……であるはずです」という御意見は、
同時に主張すると無理が生ずると思います。
どちらかの御主張を撤回なさるか、国家観の変更が必要ではないでしょうか。
もちろん、私の「近代国民国家の成立は、多くをフランス革命に負っている」
という主張こそ撤回する必要があるのかも知れませんが。
(先の引用部分、「歴史的なものは幻想である」という御主張にも読めます。)

gajaimo さんは、国家=公説の取り扱いにおいて、
公= public と考えておられるようです。
そんなのは白人さんに任せておけばよろしい。
もっと正確に言えば、アングロサクソンさんに任せておけばよろしい。
どーせ公= public なのであって、
publik でも publique でもないんでしょうから。
(ここらへん感情的なので、聞き流して下さい。)
そうすると、日本人にとって国家=公とは、まさに幻想になります。
幻想に「のみ」依拠して大上段の御高説、というのは確かに胡散臭いです。
国家なる幻想は、確かに幻想です。
どのくらい幻想かというと、自由や人権や平等と同じくらい。
そしてなかんずく、「愛」と同じくらい幻想です。
愛(恋愛も宗教的に聖化された愛も)が幻想というのが受け入れられなければ、
その人の、国家が幻想という主張もずいぶん恥ずかしいものに聞こえます。
同様に根拠薄弱なものでも、自分が嫌いなものは幻想と言い、
自分が好きなものは真実だと言い張る子供のように感じるからです。

国家がずばりイコール公というのは誤り。
これは結構多くの方が間違えているようです。
(わざと間違えている可能性も高い。)
公というのは重層的なものです。
修身斉家治国平天下という言葉があります。
国家など、天下に比べれば私です。
その天下を象徴する中国皇帝ですら「一姓の私」と呼び慣わされています。
また逆に、家ですら個人に比べれば公なのです。
家に比べれば、ご近所もまた公なのです。
お家大事の原理は、実は我が身大事の利己心から来ており、
お家大事の原理は、「そのまま」ご近所大事の原理になります。
ご近所大事、自治体大事と同じ感覚で、国家=公になるのです。
ここらへん、西洋気狂いには理解すらできないでしょう。
西洋の学者さんは、実感できないだけで理解はできそう。
(だからって、やはり日本人は野蛮でどうしようもない。
 早く文明に導いて差し上げなくては、などと考えないで下さい。
 迷惑です。)
さて、この複数の公の間でバランスを採ることで、
国家=公ならぬ、国家≡公の暴走を食い止める事ができるのです。
「リアルに手の届く範囲においての公」のヒントにはなりませんか?
愚かな事に、国家の反対語が個人「しか」ないと思い込んでしまったために、
公の暴走を食い止める原理が個人の権利の暴走「しか」なくなってしまいました。
これに関してオルタナティブの必要性は感じていらっしゃらないのでしょうか。
(個人の権利の暴走以外に公の暴走を止める原理がないか、という事。)

まあなんにせよ、過剰な思いこみの元は「しか」ないという点かも知れません。
臣民意識を持つ日本人は、諸外国の「たかが国王」を「陛下」と敬称することで、
天皇陛下を常に「しか」の毒から清め奉らなくてはなりません。
え? 「勿体無くも我が陛下は南蛮毛唐なぞなくとも、
ただ御一人で聳えていらっしゃるわっ」ですって?
日本国内での完結系を採用する人はそういう立場でしょう。
そういう人は、それぞれの歴代天皇を皇祖皇宗の中に座せ奉り、
天皇御自身を「たかが今上(きんじょう。今の天皇)」と捉え奉り、
天皇陛下を常に「しか」の毒から清め奉らなくてはなりません。

国家=公ではなく、国家≡公は、本当にアホらしいものです。
アホらしいばかりでなく、危険です。

引き続き、国防研究会の皆様の反論についても能書いてみました。
期待してもしなくても、しばし待て!


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