[1:14] 守れや守れ連隊旗
1 ナマエ:ランス/鐵扇會 1999/11/09(Tue) 23:02:56
どなたか連隊旗について詳しく教えて下さいませんか。
自分あまり知識無いので是非知りたいのです。
・連隊旗の歴史
・連隊旗の精神(意義)
・軍人にとって連隊旗とは
等についてお教え願えると幸いで御座います。
よろしくどうぞ。

2 ナマエ:初心者・元気だぞ/鐵扇會 1999/11/10(Wed) 07:16:44
ぼくんところに

日本の軍隊ものしり物語 ってのがある

けど 読み直して 引用しない

連隊旗手 ってのは すんごい名誉だったってことは 覚えてる

さよなら
3 ナマエ:初心者・元気だぞ/鐵扇會 1999/11/10(Wed) 07:19:08
あ そだ

あと 石原莞爾は

おんなし郷里の出身者だけで 連隊こさえよー とか

かんがいてたことある

けども 地元の力関係が そのまま軍に持ち込まれるの避けて

やめたらしー

そりゃ そー

番長が 軍帽かぶって やっぱ番長だと よわっちーやつは かわいそ

さいなら
4 ナマエ:野次馬三太 1999/11/10(Wed) 18:04:28
連隊には
工兵連隊、気球連隊 鉄道連隊 等々ございますが、
連隊旗を拝受されるのは歩兵連隊と砲兵・騎兵連隊だけです。
騎兵連隊についてはその多くが戦車連隊や捜索連隊に編成
を変えたので支那事変の後はなくなってるはずです。

連隊旗は一般に軍旗と称します。
陛下から賜る極めて神聖なもので、軍のシンボル以上の存在です。
軍旗授与式というのがあって、正装の上、諸式にのっとり宮中にて
とりおこなわれました。/詳しくは知りませぬ。

各地で玉砕が続いた戦線では、部隊の最後の最後の局面に軍旗を奉焼
(単なる焼却ではなく、陛下に「焼却してお返しする」という意味。)
し、いわば部隊とともに運命を共にしました。

戦時での軍旗は、連隊旗手のもと護衛小隊が形成されます。
連隊旗手は‘噂’では容姿端麗・品行方正の新任少尉が選出されたそうです。
明治以降続いている部隊の軍旗は
‘ふさ’だけのぼろぼろとなった軍旗が多いですが、
賜ったものに手を加えることは(畏れ多い)できないのでそのままの状態
だったそうです。

なお、海軍は軍艦旗の場合は
汚れたら取り替えるだけで、陸軍のような概念はありません。
その代わり両陛下の御真影がありますので、
艦が沈没するときは、奉じて持ち出すか御真影に殉じます。


PS/局長え
テレほーだい ではないので、
会議室には参加できまっしぇん。(>0<)・・・・
でも
こういう掲示板でなら問題なしです(^^)/
さいなら
5 ナマエ:ランス/鐵扇會 1999/11/10(Wed) 23:32:10
>‘ふさ’だけのぼろぼろとなった軍旗が多いですが、
>賜ったものに手を加えることは(畏れ多い)できないのでそのままの状態
>だったそうです。

軍歌「敵は幾万」では

旗は飛び来る弾丸に
破るるほどこそ誉れなれ

という一節があります。
ボロボロになったということはそれだけの激戦を戦い抜いたということであり、多くの英霊の尊い血が払われているということですね。
まさに連隊旗(軍旗)は勇猛日本陸軍のシンボルでありましょう。
6 ナマエ:MUTI 1999/11/11(Thu) 00:55:27
 野次馬三太さんへ。
すみませんが、細かい点、気になってしまったので。
たしか、砲兵連隊には、軍旗、無かったはずです。
「砲、すなわちこれ、軍旗」

7 ナマエ:野次馬三太 1999/11/11(Thu) 09:05:46
>砲兵連隊には、軍旗、無かったはずです。
>「砲、すなわちこれ、軍旗」

仰せのとおりでございましゅ。
訂正してお詫びします。そうすると騎兵連隊の方も怪しいなぁ・・・・

歩兵連隊以外にもう一つあった気がしたけどんぁ・・・
8 ナマエ:MUTI 1999/11/11(Thu) 22:31:04
 以下、世界大百科事典(日立デジタル平凡社)からの引用です。

軍旗
ぐんき

旧日本陸軍の連隊旗をいう。歩兵・騎兵各連隊の創設に際し天皇より親授されたもので,
廃止連隊の軍旗は宮中へ返還された。単なる旗章としてではなく,
現人神(あらひとがみ)たる天皇の分身であり,連隊の魂であるとしてこの上もなく
神聖なものとして取り扱われた。
 1870年(明治3)明治天皇は各藩兵に連隊旗と大隊旗を授与したが,
これは当日かぎり使用したもので,後の軍旗とは異なる。
74年1月,天皇は日比谷操練場で近衛歩兵第1・第2両連隊に対し軍旗を授与,
同年12月太政官布告により,軍旗は全国の歩兵・騎兵・砲兵連隊に授与されることと
なった。しかし現実には砲兵連隊には授与されず,
騎兵連隊は1940年捜索連隊へ編制がえになり軍旗は廃止された。
 軍旗は平素連隊長室の箱に納められて安置し,24時間軍旗衛兵が
立億(りつしよう)護衛した。国の祝日や連隊全部の演習などのときには,
連隊旗手が捧持し,5人の旗護兵がこれをまもり,連隊長と行動を共にした。
作戦・演習の際は軍旗中隊が指命され,その中隊が軍旗をまもる任務をもった。
軍旗は天皇と神社以外に対しては敬礼をしなかった。
年に1日軍旗祭といって,その連隊の軍旗授与の記念祭が行われた。
その日軍旗は営庭に安置され,神酒・供物が供され,一般民衆にも開放して拝観させ,
その日は将兵あげて無礼講の酒宴や余興が行われた。
敗戦と同時に大半の軍旗はそれぞれの現地で焼却された。
なお,主要国における軍旗については〈旗〉の項を参照。

9 ナマエ:MUTI 1999/11/11(Thu) 22:32:08
 というわけで、旗です。

はた

幡とも書き,布や紙を材料とし,目印あるいは象徴としての機能を果たすために,
高く掲げられて用いられるもの。
[日本]  古くは旗は神を招き祭るものでもあった。熊野の有馬村で
伊弉丑(いざなみ)尊を祭るとき鼓吹幡旗(つづみふえはた)が用いられ(《日本書紀》),
小子部栖軽(ちいさこべのすがる)は馬上で赤い幡桙を手にし雷神を招いた(《日本霊異記》)。
幡は神祭以外に仏教行事にも用いられ,《和名抄》で幡は伽藍具(がらんぐ)の部にも
入れられている。八幡神の名称は多くの幡をたて祭られたことによるとも言われるが,
それは多分に仏教儀礼としての幡であった。
《和名抄》で幡を征戦具の部に入れ,また〈旗を揚げる〉が軍事行動の開始を意味
することからも,軍団の象徴としての役割を果たしている。歴史的には源氏の白旗,
平家の赤旗が知られている。千葉常胤(ちばつねたね)が奥州追討にあたり源頼朝に
献上した旗は,1丈2尺2幅で,その上部に伊勢大神宮,八幡大菩醍,下部に鳩2羽が
白糸で縫いとられていたという(《吾妻鏡》)。⇒幟‖旗指物
10 ナマエ:MUTI 1999/11/11(Thu) 22:33:30
[中国]  〈はた〉を通称して,旗(き)あるいは旌旗(せいき)などというが,
もともと〈旗〉〈旌〉ともに〈はた〉の一つの種類を表す語である。各種の旗を示す
漢字は,もとよりこれにとどまらないし,金文の図象文字にも数多くみられる。
漢代の字書《釈名》をはじめ,後代の類書(一種の百科事典)がそれらをあげるが,
いずれも兵器類に分類している。これは旗が軍隊において,必須のものとしてあった
ことを示す。しかし古く氏族社会における旗は,氏族の虐幟(きし)であり,集団の
遠行などには,氏族旗を掲げて行動したし,人々の集合・集会の標識にも用いられた。
また旗には辟邪の機能があり,保護霊の宿るところとも観念され,祭祀の神おろしや
祖霊おろしにも使われた。さらに銘とか銘(明)旌の語に示されるように,貴族・高官の
喪儀には霊柩の前に〈某官某公の柩〉と書かれた旗がたてられ,葬るときにその旗は
柩上におかれた。死者だけでなく,功労のあった臣下の名は王の旗に銘書されもした。
このように中国の古代における旗は軍事的のみならず,宗教的,社会的,政治的な
機能を広く果たすものであった。
 《周礼(しゆらい)》司常の九旗は,先秦時代の旗の種類と用途を概括した最初の
文献であり,それらをほぼ踏襲したのが《釈名》釈兵の記述である。すなわち,
〈常〉は日・月を図案とし天子が使用した。
〈喰(き)〉は交竜を描き,諸侯が用いた。
〈隅(旃)(せん)〉は文采を施さず赤一色の帛製,孤縁(三孤)が用いた。
〈物〉は士大夫(《釈名》では将帥)が用い万物の多様をかたどった。
〈旗〉は熊・虎の図案で帥都(軍将)が用い,旗は期に通じ衆兵とその下に集合の
約をなす意という。
〈櫛(よ)〉は鳥・隼の図案で州里(軍吏)が用いた。
〈遇(ちよう)〉は亀・蛇の図案で県鄙が用いた。
〈串(釧)(すい)〉は五彩の全羽を竿頭につけ,王の導車にたてた。
〈旌〉は全羽を半ばにした旄で飾られ,王の狩猟に用いられた。
四季に行われる国軍の教練や閲兵をはじめとして,祭祀,賓客の会同,喪礼,田狩,
射技,歳時の儀礼などの国の行事に,これらの九旗が用意され,諸行事,諸行動の
秩序づけ,意志結集,象徴などの役割を果たしたのであった。
 ところで陣容の整い秩序だった軍隊を表現して〈正々の旗,堂々の陣〉と
いい,また《孫曾(そんぴん)兵法》が,軍陣の威武を示すものは旌旗と武器
であるというように,旗による秩序づけ,意志結集,作戦伝達の信号の機能が
端的に作用したのは,戦争においてであった。《淮南子(えなんじ)》兵略訓によれば,
戦争が起こると,国君は将軍を召して君命を与え,出陣の儀式をとり行って旗鼓と
斧鉞(ふえつ)を授ける。将軍は戦車に旌旗と斧鉞をたて出陣する。凱旋すれば旌旗と
斧鉞を返納し,戦闘の終結を主君に報告した。これは軍事行動において旗が軍威を
象徴したことを物語るものであり,また漢の高祖劉邦が沛(はい)に兵を挙げたとき,
軍神を祭り旗鼓に釁(ちぬ)ったというのも,戦闘における旗の神聖な機能を示すものである。
 実戦において旗は,金・鼓とともに三官(《管子》)といわれ,指揮・号令に使われた。
金は鉦であり鼓は大鼓で,部隊の進退を指示する。旗は《礼記》典礼にみられるように,
五行思想を反映した五色旗によって各方面軍の標識とされた。
赤は南(前),黒は北(後),青は東(左),白は西(右),
それぞれ天・地・風・雲を象徴として鳥・亀・竜・虎の四神がかたどられ,
黄は中央軍で招揺(北斗の杓端)が描かれた。
各方面軍は,方面旗の指示に従って行動する。中央旗の黄旗が振るわれれば
全軍が集合し,各方面旗が挙げられれば各軍は戦闘の準備を整え,
前方に指し示されれば進軍し,まっすぐにたてられれば止まり,
臥(ふ)せられれば退却した(《通典(つてん)》)。軍威の象徴であり,
軍令を徹底させる旗は,したがって敵軍に奪われてはならないものである。
旗鼓・旌節を失ったり,敵に取られたりすれば斬刑に処せられる厳しい軍律が
あった。逆に敵の旗を抜き奪いとることは,〈搴(けん)旗〉といい
〈搴旗の士〉とは勇士を意味した。旗の争奪による戦場の帰趨を作戦に
みごとに駆使したのは〈背水の陣〉の故事で知られる漢の韓信の井反口付近での戦い
である。20万の趙王の軍を相手に数千の兵数で戦う韓信は,河を背に主力軍を死力を
つくして戦わせ,その間に漢軍がわざと放棄した大将の旗鼓を奪いあう趙軍の虚をつき,
漢の奇兵が空となった趙軍陣地を占領して趙軍旗を抜きとり,漢の赤幟を
一挙にはためかして勝利をおさめたのであった。なお守城の指揮にも各種の旗が信号の
役割をもったことは《墨子》旗幟篇にみえ,たとえば蒼鷹旗,虎旗,羽旗,竜旗などの
旗で守城の部署を明らかにし応戦に備えた。
 中国の旗は,上述の九旗のほかに,比較的知られるものとして,
〈将軍の精〉といわれる象牙で飾られた牙旗がある。呉の孫権がその中央軍につねにたてていたのも黄竜の牙旗であった。将軍の居城を牙城というが,
そこには牙旗が翻っていたことからこの語が熟したのである。
旄牛の尾などを飾った旗は纛(とう)といわれ,天子の乗輿の左にたてられる旗を左纛
といった。軍中の大旗をまた纛といい,古くは天子は六纛をたてた。
唐代の節度使は,皇帝の意志を体現する使者に授けられる杖に旄のついた節と
ともに六纛をたてて任地におもむいた。狼頭を刺斥した狼頭纛は突厥(とつくつ)の旗
として知られる。竿を掲げて旗をつくり秦の打倒に立ちあがったのは陳勝・
呉広であったが,明朝を崩壊に導いた反乱の指導者である李自成の本隊には,白色の
房をつけ,銀色の仏像をとりつけた大纛が陣容をかがやかしていた。
 清代の軍事・行政組織には八旗があって黄・白・紅・藍の4色の旗にそれぞれ
縛(じよう)と正があり,満州族,モンゴル族,漢人の軍隊を各八旗ずつに
編成した。これがまた清朝時代の満州・モンゴリアの行政区画となり,
旗(き)(漢人地帯の県に相当)と呼ばれ,その遺制は現代にも受けつがれている。
中華人民共和国の国旗は五星紅旗である。紅色の旗面に光明を表す黄色で五つの星が
左上方に描かれ,中国共産党の指導下に革命的人民が結集・団結する姿を象徴する。
 なお旗亭とは酒家の意であるが,酒家が旗をその標識としたことから熟した。
酒家が旗を看板に用いるのは,先秦時代からの風習といわれるが,
む唐詩に詠ぜられていることにより人口に膾炙する。
また宋代にいたっては,糠京(べんけい)(開封)の繁華街の酒家に
錦の旗がたなびいていたという(《東京夢華録》)。

11 ナマエ:MUTI 1999/11/11(Thu) 22:35:17
[ヨーロッパ]  形状や用途によってスタンダード standard,
バナー banner,エンサイン ensign,ペナント pennant その他さまざまの呼名がある。
装飾,信号,標識,象徴などの機能をもつが,意志,威力,権威の象徴となりやすく,
ときにはそれらと同一視される。紋章と関連して発達した。布片に限らず象徴的な
物体を棒や槍の先に取りつける風習が起源であるらしい。
イスラエルの12支族はそれぞれのシンボル,例えばライオン(ユダ),舟(ゼブルン),
星(イッサカル)をもっていたし,エジプトでも王の行列の先頭にはこの種の標章を掲げ,
ときには吹流しをつけたという。ローマの軍団も固有の標章を捧持していた。はじめ
猛獣や神をかたどっていたが,マリウスの軍制改革で鷲に統一される。軍団司令直属の
第1大隊が護持に当たり,〈鷲の誕生日〉つまり軍団の創立記念日には祭典が行われた。
武運の宿る所として尊崇を集め,兵士はいかなる神にもましてこれを
尊信するとテルトゥリアヌスが伝えている。皇帝旗は横棒から方形の布地を垂らした,
いわゆるバナー型の旗で,最初のキリスト教徒皇帝コンスタンティヌス1世が
〈冉〉印(キリストを意味するギリシア語の頭文字 XP の組合せ)の旗を
用いたことはよく知られている。中世,フランク王クロービスやカール大帝が
聖マルティヌスの聖号たる〈頭巾〉を表した旗を用いたのも,形状の上では
この延長である。ただし中世では,聖人の聖遺物そのものを陣頭に捧持して,
霊力による怨敵退散を期待することも多かったから,この種の旗には聖遺物の代用
ないし象徴としての意味が混入している可能性がある。1124年,危機に臨んだ
ルイ6世は,サン・ドニ修道院の祭壇から聖者ドニの赤い旗(オリフラムoriflamme)をとって王軍の旗とした。第1回十字軍では赤十字が愛用されたが,
これは隠者ペトルスの標章に由来するものとされている。
 旗は王侯や武人だけが用いたのではない。民衆もなんらかの意思表示の
手段として,
ほとんど自然発生的に旗を掲げる場合があった。1445年,諸国の少年たちの間に
モン・サン・ミシェル巡礼熱の異常な高揚を見たとき,彼らは聖像や天使や領主の紋章を
描いた旗を持っていたという。これとは反対に,1513年ヨス・フリッツは村祭のときに
ブントシューの旗を広げて農民の決起を促している。百年戦争の過程で団隊戦の原理が
復活してくると,軍旗・隊旗の重要性が高まり,イギリス軍およびブルゴーニュ派は
赤十字,アルマニャック派は白十字を用いた。青地に白十字の旗は次いで
ルイ15世によって第1連隊の旗として制定される。旗のもつ信号としての性格は,
旗において顕著に現れるが,その到達点は信号旗体系と手旗信号であった。
陸上でも,近世のフランスで総司令部の所在を示した白旗,包囲下に置かれた
市で病院を示した黒旗のように,かなりの範囲にわたって信号として了解された
場合もある。 
程度の差こそあれ軍旗は神聖なものとして扱われることが多く,
逆に敵からは奪取の対象となってきた。このため,軍旗の再交付をゆるさず,
軍旗を命にかえても守るべきものとした国も少なくない。
例えば,ナポレオン時代のフランスでは連隊旗の再交付はゆるされず,
旧日本陸軍でも,西南の役を例外として,連隊旗の再交付はゆるされない
ものとされてきた。
一方,海軍においては,軍艦旗は風雨にさらされるものであり,つねに
幾枚かを艦内に備え,鮮明なものを掲げた。
19世紀後半に無煙火薬が使われるようになるまでは,戦場は黒色火薬の煙に
おおわれており,指揮官が部隊の位置を把握するために目だつ軍服や旗が
とくに重要であった。
現在でも,指揮官の存在,部隊名等を示す各種の旗が使われているが,
その実用的意味は以前に比べ減少している。
12 ナマエ:ランス/鐵扇會 1999/11/11(Thu) 23:10:16
MUTIさん、どうもです。
世界大百科事典は役に立ちますねー。
こんな詳細に記述されているとは。
13 ナマエ:児玉源太郎  1999/11/17(Wed) 19:31:54
西南戦争において乃木少佐が連隊旗を紛失してより、
連隊旗は神聖であるの見方が始まり、
ぼろぼろに成っても修復するのは恐れ多い、
と言うことになったのであります。
九段(靖国神社)の資料館に連隊旗が残っているので、
一度見に行っては如何でしょう。それでは失礼致しました。
14 ナマエ:ランス/鐵扇會 1999/11/20(Sat) 04:55:16
>九段(靖国神社)の資料館に連隊旗が残っているので、
>一度見に行っては如何でしょう

もちろん確認済みです(^^;
たしか現存するのは遊就館にある連隊旗だけなんですよねー。


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