「大東亜戦争について」

 

「戦争論」発売以来、私なりに自分の感覚をチェックしながら、いろいろと大東亜戦争について考えてきました。そして、最近やっと答えらしきものが見えてきたので、それについて書いてみようと思います。

 

大東亜戦争は侵略戦争でも解放戦争でもない

 大東亜戦争について、侵略戦争派は「無用の戦争を起こした」という。しかし、この論者は日本とアメリカが開戦前に一年近く交渉をしていたという事実を忘れている。当時の交渉過程をつぶさに見れば、日本が戦争回避に向け努力をしていたことは確かであり、日本の方から積極的に仕掛けたというのは間違いであろう。別に戦争回避の努力をしていたから、日本は悪くなく責任は全てアメリカにあるなどとと言いたいのではない。日本とアメリカが不幸にも戦争をしてしまった理由は「ハル・ノートを書いた男」(文春新書)にある通り、まず日米双方に利害の対立があったこと・お互いパーセプションギャップにより不信感を募らせ、交渉により妥協点を見出すことが不可能になったことに帰せられるであろう。これはもう日本とアメリカ、どちらが善くてどちらが悪いという問題ではない。逆に言えば、責任は両方にあるのであり、日本だけが悪いというのは間違いである。
 また、なんとなく「東南アジアに進駐したから駄目だ」という観点から侵略戦争と言う向きもある。変な話だ。日本の開戦理由の多くは東南アジアの資源を獲得するためだったのだから、現地の駐留軍を排除し、占領するために軍事進出するのは至極当然のことではないか?このような見解には当時の世界を現在のような自由貿易体制と見て、日本は主に領土的野心から東南アジアに進出したという誤解がある。
 東亜解放戦争的な見方にも疑問がある。日本は交渉妥結による事態の収拾が困難になったため、「自存自衛」のためやむなく戦争を始めたというのが正解であろう。東アジアを解放するという理想のために起こしたのではない。と言っても、それは別に恥じることではない。国家が国益を追求するのは当然のことである(戦争を始めたこと自体が国益に反するという意見もあるが、当時の日本が置かれていた状況を考えると、そう言い切るのは難しい。望ましくない選択肢しか残されてないときもある。そうならないようにするべきだったという批判はありだが。)もちろん、東亜解放という理念が存在し、日本がある程度本気でそれを実行していたということは事実であろう。しかし、専ら日本が東亜解放のため戦争を始めたとするのは正しくない。

 

大東亜戦争は異常な戦争ではない。日本は異常な国家ではない

 以上のように、大東亜戦争は日本人が軍国主義に狂って起こした侵略戦争でもなければ東亜解放のため身を捨てて仁をなした解放戦争でもない。利害の衝突から起きた、その意味ではごく普通の戦争であり、世界史的に見て異常な事態とは言えない。残虐な事件も多く伝えられているが、それは日本に特殊の事情ではなく、戦争に必ず付随してくる悲劇である。他国と比較して日本の戦争犯罪が突出して多く、残虐であるわけではない。ドイツのホロコーストと同列にするのは論外である。
こういう言い方は「居直り」といわれるかもしれない。しかし次のような意見を参考にしてほしい。「ここで、我々は国際社会の倫理というものを考える際に、「正義」という観念と、「正常」という観念を区別しなければならないように思われる。通常の一国内部の市民社会は、完全とは言わないまでも「正義」がほぼ貫徹される状態が「正常」である。ところが、国際社会の場合は、各国が、そうした「正義」の基準からすれば、きわめて低いレベルにおいて実際に行動し、かつそうした低レベルの基準で自国の行動を評価しており、実はそれこそが国際社会の「正常」な状態なのである。」
我が国は(他の国の多くがそうであるように)「正義」でもなく、さりとて「悪」でもない、「正常」な国(=帝国主義国家)であっただけである。
もちろん反省すべき失敗は数多くあるであろう。そのことについて異論はない。しかし、それは我が国が「異常」な「悪」だったからという文脈で語られるべきではない。

 

父祖への共感なくして歴史は語れない

 そして、そのような大東亜戦争に対する政策的な反省をする前に、我々はアメリカ人でもなく、中国人でもなく、日本の歴史を否応なく引き受けざるを得ない日本人であるという自覚を持って我々の父祖と相対するべきであろう。そのような自覚を持たずに、なにやら自分を一切の歴史的呪縛から解き放たれた「人類」や「市民」という立場に置き、そこから過去の日本を断罪するという姿勢は、結局自分を高みに置いているだけだし、過去から貴重な教訓を引き出すこともできない。我々が何を言っても、大東亜戦争の歴史の延長線上に存在していることは確かなのだから。
といっても、私は別に大東亜戦争を誇れと言いたいのではない。立派な戦争であったと言いたいのでもない。本音を言えば、もう「侵略戦争か否か」の論争にはうんざりしている。私は、ただあの困難な時代を生きた父祖たちに対する共感なくしては、歴史を語ることは出来ないし、反省もなにも無意味だと言いたいだけである。
「われわれは、近代日本の無数の人々の営みの跡を、いま少しの愛情を持って理解しなければならない。無論、ここでの愛情とは、自惚れと慢心しかもたらさない自己愛のようなものではない。自国の過去への適切な「解釈学的反省」に至るような愛情なのである。すなわち、自国の歴史への正しい認識と評価は、そのような愛情を通してはじめて可能なのである。そして、自国の過去へのそうした愛情が、また、他国の来歴についても、真に内在的な理解を可能にするのである。現実にそうであった過去を余りに必然的かつ固定的な過程として眺めるひとは、未来に対して開かれた展望を持つことは出来ないし、またありうべきであった別の過去にひたすら固執するひとは、未来に対しても、実現の可能性を欠いた空しい夢想を投げかけるだけである。われわれの来歴は、より豊かで着実な未来への展望を切り開くものではなければならない。そのような来歴を可能にするものこそ、過去への節度を持った愛なのである。」

(引用は全て坂本多加雄「象徴天皇制度と日本の来歴」より)

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