軍人勅諭の真意

軍人勅諭が起草された理由は、その頃丁度自由民権運動が盛んになり、その影響が軍隊内にも波及してきたからだと言われているが、実際はそれだけではないと考える。山県のライバルを蹴落とす為の策略という意味合いも含めて考えなければならない。

多少説明をすると軍人勅諭は起草・西周、修文・福地源一郎・井上毅等によって作られ、山県自らが加筆修正を行い、明治十五年一月四日に煥発されたというものである。
基礎となるのは明治四年の読法と明治十一年の軍人訓戒である。山県の政党嫌いは
有名な話だが、その背景には竹橋事件があるのではないかと睨む。竹橋事件は西南戦争での待遇の不満により起きた叛乱だが、どうも自由民権運動者がいたという話もある。
とにかくそれ以後山県は政党を意識したと考えられる。


さて、話は変わって本題に
入るが軍人訓戒や軍人勅諭がらみで軍を辞める事になった将軍がいる。
山田顕義は明治十一年に外遊中にポストを奪われ、明治二十一年十二月二十五日には予備役に投入される。
谷干城は上奏文事件で明治十四年十月二十七日に本職を外され飼い殺しのまま、
明治二十二年予備役に回される。
三浦梧楼は月曜会事件で明治二十一年十二月山田達と共に予備役に回される。
他にも谷・三浦と共に月曜会や四将軍などと呼ばれた人達がいるが、それらに共通するものはみなフランス派であり、藩山県であった事である。

そして山田を除くと月曜会や四将軍は自由民権運動にも関わりがある。
月曜会ははじめはフランスとドイツの軍学の優位性については議論する為に作られた会であったが、四将軍が加わりフランス流軍学を推進する反主流派の根城とも言うべき場所と化していた。

のちに山県は桂太郎に命じて内部崩壊を行わせ、月曜会は形だけのものとなってしまうが、それは後で述べようと思う。
フランス派で反山県の代表的存在であった谷は主流派から外されたあと山県下ろしを行おうとしたが、その機先を制したものが軍人勅諭である。

月曜会では政党などについても議論していたものであり、軍人勅諭に真っ向から歯向かっているものであった。
それにより谷や三浦達は発言権を失い、藩閥ながら政治の方へと行かざるを得なくなる訳である。山県は邪魔になるものを排除する為には手段を選ばない
ところがある。保安条例などがそのいい例であるが、これも必要ないのでここでは述べない。
山県は参謀本部導入で解るようにドイツ派である。軍学のドイツ流移行にはどうしてもフランス派が邪魔になり、山県自身が政党嫌いがなので、軍人勅諭によってフランス派の
大物と政党への関与者を一掃しようとしたというのが大きいように思う。

この派閥抗争は軍人勅諭によって一応の決着を見せた。
それによっても軍人勅諭が政治的な意味を持っている事を御理解頂けると思う。山県自身が国政に関わっていて、しかも山田や四将軍は
予備に入る前に、大臣や内閣統計院院長等を勤めている。
これによって「国政」=「世論に惑はず政治に関はらず」ではない事も御解り頂けると思う。
「世論に惑はず政治に関はらず」を一塊にして考えて欲しい、その指す所はどこであろうか?国政ならば「世論に惑はず、
政治に関はらず」と区切るべきであろうし、「何れの政治に之関わらず」とした方が妥当であろう。
それに当時政治と言ったら政党活動の事を指す事が多い。
国政は飽く迄国政である。軍人勅諭に関しては山県が十一回も加筆修正を行っている。そこまで念を入れたもの
であるのに自分自身が破るというへまをするだろうか?これは解釈の違いだろうが、もう一度よく考えてみて欲しい。


山県と四将軍の確執と軍刑法の背景について説明が抜けていたので、ここに詳しく述べようと思う。
まず四将軍とは陸軍中将鳥尾小弥太、陸軍中将三浦梧楼、陸軍中将谷干城、陸軍少将曾我祐準の四人である。何れも藩閥を背景とし、西南戦争で戦功を立てた
将軍であり、将来政治的な方向に進む軍政家でもあった。しかも山県を快く思っていない人物であり、山県の権勢的野心の前にはあっては恐るべき強敵という事になるが、この四人が藩閥の外に出なければならない事件が発生した。
明治十三年に野に下っていった板垣
退助らが国会開設の運動を起こし、天下の世論はこれに応じて全国的な大運動となった。政府はこれに対して抑圧方針を採り、極力民衆運動を弾圧しつつあった時に、端無くも起こった北海道開拓史官有物払下事件である。これは開拓使が、その開設の明治五年から 十年間に、約千四百万円を投じて経営してきた官舎、船舶、工場等を、わずか三十万円、それも無利息三十年の年賦で、関西貿易商会と称する商社に払下げを許可したものである。

この商会は、払い下げを受ける為に出来た一夜作りの営利会社で、開拓使の大書記官
安田定則以下数名と、大阪の政商五代友厚とでっち上げたものである。その官吏の代表である安田及び折田平内と政商五代は、共に薩藩の出身者であり、政府に許可を強請した長官が薩藩出身の黒田清隆である事によって、世間の疑惑を深くし、国会開設運動運動に 油を注いだようなものであった。
この時四将軍はこれを黙視するに忍びないとし、相談して一つの上奏文を作り、これを東北巡幸中であった明治大帝に捧呈した。
時は明治十四年九月十二日の事である。


この結果は他の諸事情と統合されて、大帝還幸の翌十月十二日
に、開拓使官有物払下の取り消しの達となり、また明治二十三年を期し国会を開設すべき旨の勅諭となり、関連して大隈重信一派の辞職、明治十四年の政変となる。勿論四将軍上奏事件は忽ち軍内の問題となり、火花を散らしたのは山県との衝突である。山県は陸軍卿 として「軍人勅諭」を出しているが、四将軍の行為はまさにその軍人の本分に背き、深く戒しむべき政治活動に他ならない。
国政の場に居ない軍人が上奏分を出すのは明らかに越権行為である。
山県は絶好の機会として四将軍を糾弾したかったが、この見解は飽く迄
至極ではあるが、「軍人訓戒」は単なる訓示であって、刑罰法や懲罰令でもない。山県が如何に癪に障ったからといっても、罪名がないのに処罰する事は出来ない、結局この問題はそのままなってしまった。

事件は取り敢えずの決着を得たが、この事件によって端無くも
軍刑法の改正となった。
これまでの軍人の刑罰には、海陸軍刑律という刑罰法が施行されていたが、この刑罰法ではオランダ領の印度の属地に施行されたものを骨子として作成されたものなので、その内容には我が陸海軍の実情に相応しくないものが少なくなかった。

そこでその改正に着手し、これを陸軍刑法と海軍刑法とに分け、ちょうど完成しようとしていた時に、四将軍上奏事件が起きたのである。そこで軍部当局は軍人の政治関与を訓示に止めておくのは不適当として、陸海軍刑法に加える事にした。即ちこれを「違令ノ罪」 の章に入れ、次のように規定したのである。「軍人政治ニ関スル事項ヲ上書建白シ、又ハ講談論説シ、若シクハ文書ヲ以テ之ヲ広告スル者ハ、一月以上三年以下ノ軽禁錮ニ処ス」陸海軍刑法は共に同一の文句であり、その後この条項は多少の字句の修正はあったが、 昭和の陸海軍の最後まで大体このままであった。
これは四将軍上奏事件の残した遺物であり、入れ場がなく無理やり入れたものであり、本章にある他の犯罪行為とは全然意味が違うのである。しかし山県の腹の虫は治まらず、四将軍は皆追放される事となる。



次に四将軍の末路について述べたい。
まず最初に山県に破れたのは鳥尾小弥太である。鳥尾は長藩出身で年少より勇敢無比、奇兵隊に身を投じたが、父母に勘当され旧姓中村をやめ、自ら鳥尾を名乗った。戊辰戦争では二十数人の壮丁を集めて鳥尾隊と称し、
各地を転戦した。
明治四年七月少将に任ぜられ兵学頭を兼ね、陸軍省第六局長などをを歴任し、明治九年一月には陸軍中将となり参謀局長に転じた。
西南戦争では大本営の帷幄にあり、出征はしなかった。戦後明治十二年十月は近衛都督となったが、病気の為に翌年
三月に辞して、専ら療養に努めた。故に十四年の上奏事件の時には、現役であったが非職であり、病気が回復すれば当然陸軍の現職に就くべきものであった。

ところが彼はその年に、谷干城ら中正党なる政治結社を作り、政治活動をしていたので、山県は愈々憤慨し、
明治十五年には現役のまま統計院長に任ぜられ、明治十八年に統計院が廃せられると、元老院議官となり、陸軍に復帰する事はなかった。
明治二十一年枢密院顧問官に任ぜられ、同年十二月に月曜会事件によって予備役に編入されて陸軍とは永別する。晩年は統一学舎

を設けて青年子弟の教育に当たったが、明治三十八年四月に没した。最後は些か寂しいものであった。
次の標的となったのは谷干城である。谷は土佐藩出身の武将の筆頭である。谷は慶応二年には長崎から上海に外遊し、海外の新知識を得て帰朝し、戊辰戦争では
土藩兵を指揮して倒幕軍に加わり、関東及び東北で戦功を現した。
明治四年二月、御親兵の制なるや、藩隊と共に上京し、六月兵部権大丞に任ぜられて、初めて陸軍に入った。その七月、陸軍大佐に新任され、五年五月には少将に進み、六年四月には熊本鎮台司令長官
に補せられた。七年の台湾征討には、台湾蕃地事務都督西郷従道の下で参軍となり、その講和談判には大久保利通に随行して北京に赴き、これを助けた。この時までは本職は尚熊本鎮台司令長官であったが、久しく留守にした為に、明治八年六月に本職を免ぜられた。

然るに九年十月に熊本に神風連の乱があり、司令長官種田政明が凶刃に倒れたので、彼は後任として再び熊本に赴任し、ここで西南戦争となり熊本城を固守した。戦後十一年一月に中将となり、東部監軍部長に補せられて熊本を去り、十三年四月、陸軍士官学校長兼 陸軍戸山学校長に任ぜられた。
ここまでは実に赫々たる武将の行程である。
この校長時代に上奏事件を起こし、更に鳥尾小弥太等と中正党を作った事も祟って、九月十二日の上奏後一ヶ月余の十月二十七日に、本職の陸軍士官学校長を免ぜられ、兼職の陸軍戸山学校長
の方は本職となって暫くそのままであったが、十六年二月にこれも免ぜられた。現役ではあるが非職になってしまった。
谷は明治十八年十二月内閣制度創始に当り、第一次伊藤内閣に入って農商務大臣に就任した。
内務大臣は山県であってこれも現役の陸軍中将である。


これについて山県及び谷になんの処分もなかった。
その後、明治二十二年に条約改正問題が起こり、朝野に轟々たる論戦が展開された。鳥尾は前述のようにその前年に予備役に入っていたので、公然と表面に立って、これが改正反対の論陣を張った。これは元より問題
ではない。
ところでこれに和したのが、非職の現役陸軍中将谷干城であって、この二人共に非条約改正有志懇親会に出席し、堂々と反対論を打ち出した。新聞は谷の反対意見を掲載し、ここに於いて谷の言動は陸軍刑法に該当せざるを得ない。陸軍刑法に基づいて断罪
すれば一月以上三年以下の禁錮という事になる。
そこで元田永孚や大山巌が谷に色々忠告したが、他には軍律を乱すものではないと抗弁して譲らず、結局陸軍刑法の問題としない事としてその年の八月に予備役に編入された。ここで谷の武人としての生涯は終わった。

谷はその後明治二十三年に最初の貴族院議員となった。その侃侃諤諤、所信を少しも曲げない硬骨は伊藤内閣の閣僚として、伊藤首相を梃子摺らせたものであったが、議員としてはいつも時の政府の厄介所であって、貴族院は彼のある事によってその言動は異彩を放った と言われた。
彼が陸軍を去った後、土派は谷重喜が少将になれずに去り、後に独眼竜と言われた山地元治が中将となったが、残念ながら早世した。山地についてはあまり関係ないのでこれ以上述べないが、彼の早世によって明治期は一人の大将も出なかったと言っても
過言ではないが、大正・昭和あわせて結局四人(由比光衛・山下奉文・山脇正隆・下村定)の大将が出ているが御親兵の時から陸軍の基礎となった土藩が陸軍大将四人だけとは寂しいが、長閥に破れた惨敗の姿である。
四将軍の二人はそれぞれの理由で失脚したが、残りの
二人は月曜会事件で陸軍と永別する事になる。


最後に月曜会事件について少々述べたい。
明治十三年の初め頃、陸軍士官学校第一期及び二期生有志が時々小集して兵学を研究して実験を談じるうちに、明治十四年三月にこれを月曜会という研究団体に組織化した。明治十七年十一月になると陸軍少将堀江芳介が推さ
れて会長となり、三浦梧楼、鳥尾小弥太、谷干城、曾我祐準の四将軍が顧問格となったので、新進有為の将校は陸続として入会し、桂太郎、奥保鞏、長谷川好道、児玉源太郎、小川又次、立見尚文、寺内正毅、井上光、大久保春野、上田有沢、浅田信興、中村覚、早川(田村) 怡与造、東条英教、井口省吾といった後年大将・中将となって名をなした諸将が会員となったので、同会の陸軍部内の勢力は次第に増大されていった。

堀江芳介は山県の後輩の長閥で、国司順正、滋野清彦らの長閥同僚に伍して進み、本当は長州閥の本流を走るべき優秀な人材で
あったが、どう言う訳か山県とは相容れないものがあった。
月曜会会長就任の当時は、陸軍戸山学校長の職にあり、それが山県と対立する三浦、鳥尾、谷、曾我という危険人物を月曜会の顧問に推した事で問題を作るきっかけとなった。
顧問に推された前記の四人は上奏事件の
四将軍である。
政治家的色彩濃厚な面々であるので、この指導下にある月曜会が政治団体化する事は当然と言えば当然であった。学術研究の目的はいつしか一変して、反山県一派の根城のような観を呈し、事ある毎に陸軍当局を攻撃するだけではなく、軍部外の政治家と密かに
連絡するに至った。

会の性質がこういう変化をするに連れて、会員中にも動揺を来たし、桂、児玉、早川、寺内といった主流派の会員は続々と退会したので、益々反山県態度を硬化し、山県閥対反山県閥の構図が成り立ったのである。そこで当局はまず会長の堀江を狙い、十八年
五月には、戸山学校長から近衛歩兵第一旅団長に転任させ、翌年七月十日には金沢第六旅団長に転任させたが、八月十八日には早くもこれを免じている。明治二十年ごろには月曜会対山県閥の対立関係は愈々以って露骨になったので、部内統制上捨て置き難いという事で、 陸軍当局は偕行社という陸軍将校の集会所を振作し、月曜会は勿論、その他騎兵学会、砲兵共同会等の学術団体もこれに合併する事に決し、二十一年二月頃からその交渉を開始した。当然の如く月曜会は山県の陰謀であるとしてこれに服さず、「合併は反対である」との回答をなし、 ますます反山県の気勢を煽ったが、ここまで真っ向から山県に対立する事になると、会員中の軟派には、幹部の強行態度に対して飽き足らない者も出、中央部では桂、児玉、早川、寺内らの勧告によって脱会する者もでてき、第四師団では師団長高島鞆之助の内示によって、 団下の将校五百三十五人も脱会した。こうして一部の脱会者を見たものの、月曜会の中心勢力は尚減退せず、偕行社に拠る陸軍当局、即ち山県派と相対峙して、その勢力を競うという有様であって、この事は社会的にも一問題となった。

そこで山県は秘策を講じ、鳥尾小弥太と
堀江芳介に欧州派遣を命じた。会務は曾我祐準が会長代理として処理したが、有力者である鳥尾、堀江の不在によって、会の勢力は著しく減退した。そして明治二十一年十二月二十五日、鳥尾、三浦、曾我、堀江の四人を予備役投入する。三浦梧楼は長州藩に生まれながら、 陸軍の藩閥化を見るや、これを打破せんと最も猛烈に攻撃した急先鋒であった。
それだけに山県にとって獅子身中の虫であった。三浦は明治新政府に出仕して兵部権大丞となり、明治四年八月に陸軍大佐、その年の十二月に少将に進み、九年十月には広島鎮台司令長官になり、
西南戦争では第三旅団司令長官として出征、戦後十一年に中将に進んで西部監軍部長、陸軍士官学校長、十七年には大山陸相に随行して欧州視察、帰って東京鎮台司令長官、その時に月曜会顧問になったのである。
明治十九年七月二十六日には熊本鎮台司令長官になったと思ったら、
八月十六日には免職である。
彼は予備役に入ったと知らされた時、庭に出てサーベルを庭石に叩きつけ、「もう陸軍は辞めた」と怒鳴ったと言う。退職後貴族院議員となるや観樹将軍として政界に重きをなし、匿名全権公使として韓国に駐剳するや、閔妃殺害事件の嫌疑を受けて
広島に拘置されたりもした。三浦が陸軍を追われるや、その下で活動した浅田信興(川越)、長岡外史(長州)、山口勝(静岡)らは皆地方に左遷された。

余談だが、長岡は三浦没落後山県の意に組し、出世する事になるが余り関係ないのでここで詳しくは述べない。
四将軍の最後の一人
曾我祐準は筑後柳河藩士で、明治元年四月海軍御用掛として新政府に出仕、戊辰戦争には海軍参謀として出征、戦後兵部権大丞となり、四年九月には陸軍大佐に任ぜられ、大阪鎮台大貳心得を命ぜられ、やがて兵学権頭、六年二月少将に進むと供に、陸軍教導団司令長官、 ついで初代陸軍士官学校長、西南戦争には第四旅団司令長官として出征、海軍から陸軍になった事になる。
戦後熊本及び大阪の鎮台司令長官、中部監軍部長にもなったが、この時に上奏事件を起こしたのである。それでも左遷されずに参謀本部次長となり、仙台鎮台司令長官に点じ、
十六年二月に中将に昇り、参謀本部次長となり、十九年七月二十六日に再び陸軍士官学校長に転補されたが、その年の九月六日に免職された。
免職されても現役であったが、月曜会事件で予備役に入れられたのである。

曾我は四将軍の中では少々異質で闘将型ではなく、寧ろ
山県と似た軍政家型であったが、常識的で毒のないタイプであったと言える。軍職離任後も明宮御養育主任、東宮大夫及び宮中顧問官を歴任し、貴族院議員、枢密院顧問官にもなったが、政治家として華々しい活動は全くなかった。一方で日本鉄道会社の社長、岩倉鉄道学校の 校長にもあげられた。
故に四将軍の他の人物と違い、長く陸軍に残っても山県にとって脅威になるような人物ではなかったが、山県の報復的な意味合いで追放されたと言っても過言ではないであろう。

その後の月曜会は有力幹部の去った後は、最早山県閥に対抗するだけの力もなく、
その隙を窺って、明治二十二年二月近衛都督小松宮彰仁親王及び第六師団長山地元治、第二師団長佐久間佐馬太、第三師団長黒川通軌、第五師団長野津道貫、第四師団長高島鞆之助の第五師団長は、月曜会及びその他諸会を偕行社に合併しようという建議を大山陸相に提出し、 その二月二十日、大山陸相は月曜会に解散の内命を下し、二十五日に解散し、問題はここに落着した。
この月曜会の解散は反山県勢力の駆逐を意味する。反山県の陸軍の宿将は、軍人訓戒から関連して次々に失脚し、戸の後は山県閥と勢力を競うほどの有力者は上原勇作まで
出現せず、長派軍閥はここに確立したものと見る事が出来る。

大分本題と離れたが、軍人勅諭は山県の権力構築の為の側面もあった事を御理解頂きたい。

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