陸軍派閥略史

−目次−

明治維新〜西南戦争まで
西南戦争〜月曜会事件まで
日清役〜日露役前まで
日露役〜明治終わりまで
大正〜第一次大戦まで
第一次大戦〜宮中某重大事件まで -長州閥の落日-
大正時代〜昭和初期 派閥形態の変化 -上原閥の没落-

維新〜西南戦争まで

長州閥 薩摩閥
大村益次郎暗殺未遂事件 (※1)
山県派 長州反主流派
山城屋事件 (※2)
徴兵令
征韓論・西郷下野
山県派 長州反主流派 大久保派 西郷派

土佐閥は影響力を持てず、途中で完全に影響力を無くしたので、敢えて割愛した。

長州山県派 福原和勝、佐久間佐馬太、長谷川好道、乃木希典、寺内正毅…等
長州反主流派 山田顕義、三浦梧楼、鳥尾小弥太、堀江芳介、児玉源太郎、井上光…等
薩摩大久保派 黒田清隆、大山巌、西郷従道、野津鎮雄、野津道貫、川上操六…等
薩摩西郷派 桐野利秋、篠原国幹…等

<長州>

松下村塾・奇兵隊系の山県派は山城屋事件(※2)で一時的に山県が失脚したものの、すぐに復帰し、英才福原和勝等の人材を揃え、勢力増長していた。
反主流派には徴兵令に際し、時期尚早を唱えた山田顕義、のちの明治史にその名を轟かす三浦梧楼、後に四将軍と言われる一人の鳥尾小弥太、山田に才を認められ、引き立てを受ける児玉源太郎・井上光等、人材が揃っていたのが、山県派のように強力なリーダーがいず、纏りを欠いた。
長谷川好道は始めは山田の引き立てだが、山田が去った後はかなり引き立てを受けるので、敢えて始めから山県派に加える。

<薩摩>

西郷派は西郷は鹿児島に帰った後も唯一の陸軍大将であり、桐野・篠原も明治10年2月25日の官位褫奪まで現役のままである。
対して大久保に共感し、政府に残った大久保派は大山巌・西郷従道・野津静雄の大物や、屯田兵を組織する為の中将である黒田清隆を擁していたが、西郷の下野と共に鹿児島に帰った人間も多く、勢力は激減していた。


※1 大村暗殺未遂事件
兵部大輔大村益次郎は1869年9月4日近畿の軍事施設の予定地検分を終え、宿で部下達と共に一杯飲んでいたところ、薩摩の海江田信義に煽動された不平士族の襲撃を受ける。幸い致命傷には至らなかったが、11月5日、その傷が元で敗血症により死去する。
※2 山城屋事件
陸軍省御用商人山城屋和助の官金消費事件。山城屋は奇兵隊出身で、陸軍大輔であった山県と関係深く、省金借用は約65万に達した。生糸貿易の相場暴落で大損害を受け、貿易視察の外遊先パリでの豪遊を内報され政治問題化した。山城屋は帰国するものの省金は返還できず、明治5年11月、山城屋は陸軍省内で割腹自殺。薩長両派の派閥争いに絡み、山県は陸軍大輔を辞任。

西南戦争〜月曜会事件まで

長州閥 薩摩閥
山県派 長州反主流派
山田派 月曜会
軍旗喪失報告遅延謹慎事件(※1)

(合流)
山県派
四将軍上奏事件
中正党事件
軍人勅諭公布
月曜会事件(※2)
山県派 月曜会 薩摩
(崩壊)

長州山県派 桂太郎、佐久間佐馬太、長谷川好道、乃木希典、寺内正毅、小坂千尋…等
長州山田派 児玉源太郎、井上光…等
月曜会 谷干城、三浦梧楼、鳥尾小弥太、曾我祐準、堀江芳介、小川又次、浅田信興…等
薩摩 大山巌、野津道貫、川上操六、西寛二郎、川村景明…等
山県閥は将来を嘱望された福原の戦死等があったが、その力を増していた。
ここにきて反主流派が月曜会と大村の流れを汲む山田派に分かれるが、山田派は山田が現役のまま政治の方に行き、影響力は弱まる。
児玉と桂の付き合いを危惧した谷の圧力による明治12年の軍旗喪失報告遅延謹慎事件(※1)により、児玉は徐々に山県派寄りになる。月曜会も山県に抗する力はなく、徐々に切り崩される。
小川又次に関しては政治色はなかったが、谷との交際が深かった為、一応月曜会の方に加えたものの、極個人的なもので準長派とも言える小倉出身である事から、多少贔屓があるものの正当な評価を受けている。


薩摩閥も名将野津鎮雄の死等で、大山は協調的だった為、山県に抗する力はないとは言え、ある程度の力は残した。
※1 軍旗喪失報告遅延謹慎事件
正式名称を児玉少佐『明治12年5月13日「熊本鎮臺参謀副長在勤中臺下騒擾ノ際軍旗被奪御届方遅延ノ科ニ依リ」謹慎三日間に処せらる』事件という長ったらしい名前であるが、表向きは西南戦争に於ける軍旗喪失の報告が遅れたとの理由で謹慎を命ぜられた事件であり、裏には熊本城天守閣失火に於ける対処の機敏さから、児玉による放火の疑いがあったので、自他共に認める山県派である桂太郎と付き合いのある児玉に対する谷からの一種の脅迫であった。これにより児玉は桂を通じて、山県派との距離を縮める。
※2 月曜会事件
詳しくは「軍人勅諭の真意」を御覧下さい。

日清役〜日露役前まで

長州閥 薩摩閥
長州山県派
日清戦争
川上操六死去
川上操六門下 薩摩
寺内陸相就任
クロパトキン来日(※2)
湖月会
田村怡与造死去、児玉次長就任
湖月会飛躍
長州山県派 湖月会 薩摩

長州閥 山県有朋、桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅、長谷川好道、乃木希典、岡沢精
佐久間佐馬太、山口素臣、有坂成章、石本新六(準長派)、長岡外史、大井成元…等
薩摩閥 大山巌、野津道貫、黒木為驕A西寛二郎、川村景明、上原勇作、大迫尚敏
鮫島重雄、大迫尚道、伊瀬知好成、伊地知幸介…等
川上操六門下 田村怡与造、福島安正、井口省吾、東條英教、松川敏胤、土屋光春…等
土佐派は独眼流山地元春の死により完全に影響力を失い、薩摩閥は相変わらず協調路線であり、勢力を伸ばせずにいた。
長州閥は逸材小坂千尋の死や、真鍋斌等による北清事件の馬蹄銀分捕事件等(※1)があったものの、益々勢い盛んであった。
川上の死後、日露戦争が迫り、田中義一、旧川上門下(井口省吾・松川敏胤ら)が中心となった陸海中堅幹部の会合である湖月会が現れ、児玉の参入後、勢力増長していく。
※1 馬蹄銀分捕事件
真鍋斌少将隷下歩兵第九旅団が馬蹄銀を分捕った事件で、将来の陸相候補と言われた真鍋は失脚、この事が後々まで長派に暗い影を落とす。
※2 クロパトキン来日
明治36年ロシア陸軍の大物、陸軍大臣兼侍従武官クロパトキン大将が来日し、公の場で戦争は本意ではないがと前置きした上で「戦端を開くような事があれば、300万のロシア兵が東京に攻め寄せるだろう」と述べた事により、参謀本部中堅幹部を始めとした少壮派軍人の闘志に火を点けた結果となった。
この後、湖月会が現れる。
※3 田村の死去、児玉次長就任
明治36年10月1日、戦争準備の責任者であり、今信玄と言われた参謀次長田村怡与造少将(没後任中将)の死に伴い、後任問題が浮上する。
政界の方が戦争に傾いていたのも、一つは田村次長頼りの部分が大きかっただけに、田村次長に勝るとも劣らない大物次長が必要とされた。翌日、取り敢えず事務的な処理として福島安正参謀次長事務取扱が就任する。福島次長を推した大山総長は、自分が勇退し、山県に参謀総長になるように要請したが、山県は病と称し椿山荘に籠る。
そんな事で揉めているうちに台湾総督にして時の内務大臣、児玉源太郎中将が参謀次長に名乗り出る。

日露役〜明治終わりまで

長州山県派 薩摩閥 湖月会
日露戦争
児玉死去(※1)
陸大閥 児玉派
寺内時代(※2) 福島次長孤立
伊藤暗殺 奥総長就任
朝鮮併合(※3) 情報網構築実現不可能
二個師団増設問題(※4) 福島、関東都督就任
石本陸相病死(※5)
長州 薩摩閥 陸大閥 (崩壊)

長州閥 桂太郎、寺内正毅、長谷川好道、佐久間佐馬太、有坂成章、中村雄次郎(準長派)、長岡外史
大井成元、田中義一、岡市之助(準長派)、宇佐川一正、大庭二郎、山田隆一…等
薩摩閥 大山巌、川村景明、上原勇作、大迫尚道、伊地知幸介、町田経宇…等
陸大閥 井口省吾、松川敏胤、井上幾太郎、鈴木荘六、宇垣一成、尾野実信、河合操、福田雅太郎
菊地慎之介、白川義則、武藤信義、東條英教…等
児玉派 福島安正、井口省吾、松川敏胤、河合操、大沢界雄、尾野実信、田中国重…等
川上の死後、長州閥はオーナーの山県が元老として表面上枢密院に籠り、桂・児玉・寺内体制となり、乃木は予備に。
田村の死、日露戦争を経て、英才児玉源太郎・井上光が死に、児玉の目指した情報網の確立は途絶え、諜報の天才福島安正は実りのない次長となる。更に下劣な寺内人事が横行し、戦史課の英才東條英教や、名将黒木為驕E西寛二郎・小川又次等が相次いで予備・後備になり、猛将野津道貫が死に薩摩閥は衰え、長州最盛の時であるが、湖月会の結束以後、大山・児玉を除き、日露戦争の満洲軍総司令部のメンバーは陸大出で固められ、この辺りから陸大卒の天保銭組が現れ始め、無天組と区別がされ始める。
※1 児玉の死
児玉参謀総長が死に、満洲に関して意見を対立させていた者がいなくなった山県と桂は、満洲鉄道に後藤新平を送る。死後処理の鮮やかさ、後藤の挙動不審から、一部では暗殺説も残っているが、いまいち信憑性に欠ける。
児玉総長、福島次長の情報網構築の目標はこの時点で絶たれたと言っても過言ではない。
ついでに言えば児玉・大沢界雄コンビの働きで注目され始めていた兵站の重要性も、輜重卒が兵ならば蛙・蜻蛉も兵のうちと言われるような兵站軽視思想が台頭してくる。
※2 寺内時代
寺内人事が横行し、何の功績か解かったものではないが、寺内に至っては初授で二段飛びの子爵である。
あと特筆すべきは寺内・山県という何の戦功かも良くわからない連中に功一級金鵄勲章が下賜されている。大山や児玉、野津、乃木、奥等と並ぶ戦場での功績があったとのたまうならば、勝手にしてくれと言いたくなるほど醜悪な茶番劇である。
黒木を避け、井上良馨(海軍だが(汗))なぞと言う殆どの人が聞いた事もないような、寧ろ軍内の笑い者であった将軍を元帥府に列したり、岡沢精などという訳の解からない人物を大将にしたり、小川・西(両者は或いは信望がなく、或いは戦将である為、大将になっただけでも正当評価と言えなくもないが)・大迫尚敏(長派であったら元帥になったであろう逸材)・土屋光春(名誉進級で大将になるが、大将としてはまだ用いれる人材)・井上光(度々陸相候補に模せられ、非凡であったが山県と合わず中央部の要職に就く事なく病死)・東條英教(日清戦史編纂問題で馬を買うだの買わないだの訳のわからん理由で寺内に、第四(戦史)部長からいきなり旅団長に飛ばされ、歩兵第三十旅団時代に長谷川の素行の悪さを面詰した事で睨まれ、手腕が乏しいとの理由で現役から追われた。戦史に関して海軍の佐藤鉄太郎と並ぶ、惜しい逸材であった。)等の枚挙に暇のないぐらいの人材を闇に葬る等のやりたい放題の時代である。
この滅茶苦茶さは、後任の準長派で寺内の子分、石本新六陸相時代も続く。
※3 朝鮮併合
西南戦争以来、戦場に出ずして大将の栄位に昇った寺内は、当時統監であった曾根荒助を蹴落とし、陸軍大臣兼任のまま、韓国統監に就任(明治43年5月30日)。
伊藤暗殺等を契機に、一気に併合に漕ぎ着ける(明治43年8月22日「日韓併合ニ関スル条約」調印、10月1日朝鮮総督就任)。明治44年8月の第二次桂内閣の倒壊を受けて、やっと陸軍大臣を子分の石本新六陸軍次官に譲り、軍事参議官兼朝鮮総督となる。
この功で伯爵、後には元帥にまでなるという厚顔無恥ぶりを発揮した。
※4 二個師団増設問題
第二次西園寺内閣発生後、陸軍は国防上必要との観点から朝鮮二個師団増設を主張した。
これが国防上緊急に必要であったかは当時に於いては容易には決着がつかない難問ではあったが、寺内総督の朝鮮総督として権力増強には確実に必要なものであったのには間違いない。
※5 石本陸相病死
明治45年4月蓄財の念が深いとの非難はあったが、勤勉な石本陸相は過労死し、田中義一に繋ぐまで予定されていた真鍋は馬蹄銀分捕事件で失脚しており、増師案を強硬に主張し得て、後任になり得る中将は上原勇作・木越安綱・長岡外史・福島安正・松川敏胤・本郷房太郎・大谷喜久蔵があったが、古参の上原か木越という事に落ち着き、已む無く上原勇作に白羽の矢が立ったものの、次官に岡市之助(準長派)、軍務局長に田中義一等と重要ポストを長派で固めていた為、上原は前途多難であった。

大正〜第一次大戦まで -上原勇作の台頭-

長州 薩摩
(上原派)
陸大閥
草生事件
上原陸相単独辞任
大正の政変
軍部大臣現役制廃止
対独宣戦布告
長州 薩摩
(上原派)
陸大閥

長州 寺内正毅、長谷川好道、佐久間佐馬太、有坂成章、長岡外史、大井成元、田中義一
岡市之助(準長派)、宇佐川一正、大庭二郎、井上幾太郎、山田隆一…等
薩摩 上原勇作、川村景明、大迫尚道、伊地知幸介、町田経宇…等
陸大閥 井口省吾、松川敏胤、鈴木荘六、宇垣一成、尾野実信、河合操、福田雅太郎、菊地慎之介
白川義則、武藤信義、田中国重(薩摩閥か微妙)…等
長州閥は桂が大正の政変で失脚し、巻き返しを計っている最中に死去。
寺内が山県の後継者となるが、最後の灯火が激しく燃え上がるようなものであり、最盛の時であった。
薩摩閥は大山没後、上原派へと移行し、川村景明は純然たる戦将であって、派閥臭は皆無であった。
陸大閥はまだ純粋な学閥であって、然程勢力があったとは言えないが、将来勢力を得るであろう事は人材供給の観点から間違いのは確かであった。更に言えば福島安正・梅沢道治らが退けられた時代である。
※1 草生事件
明治四十四年頃、上原は自分の親戚である松山歩兵第二十二連隊付のY中佐(露骨なので敢えて名前は伏せる)の夫人が万引きしたという事件が起こるが、以前の上司であった近衛師団参謀長藤井幸槌が心配し、人事課長草生政恒に処置の見通しを尋ね、草生は率直に休職が適当だろうと答えたが、これがどこから漏れたか、上原の耳に入り、勝手に激怒した上原は石本陸相に厳重抗議を行なう。
石本陸相から注意を受けた草生は上原に反駁したところ、上原も失言だと感じたのか、丁重な詫び状を送る。しかも上原は親戚ではあっても直属の上司ではない。やるなら直属の上司から言わせるべきであった。
石本の死後、上原が陸相候補に上がった時、長派の高級副官や上原の意を受けた人間が意見を求めたが、草生は素直にえらい人だとは思うが、少々軽率の嫌いがあると述べ、上原陸相に決まると左遷される。
世には長派の人事だと思っている頓珍漢な方もおられるようだが、公正な態度が寺内の信頼を得ていた人間で、何度も人事局長候補にまで上げた人材を長派の誰が失脚させるであろうか?因みにY中佐は上原が陸相となると休職にならず、関東の某連隊区司令官に栄転させられた。
上原の度量の狭さは推して知るべしであろう。
※2 上原陸相単独辞任
第二次西園寺内閣で二個師団増設問題を拒絶され、陸軍内で余剰金を求めたり、努力を怠らなかったが、陸軍内(特に長派)の意見に負け、山県と相談し、単独参内し、辞表を奉呈した。法令曲解甚だしいものであり、これが元で倒壊したと言われているが、この辞表は違法として閣員全員の辞表と一緒に改めて奉呈される。内閣倒壊の建前は「閣内不一致」であるが、真の理由は「陸軍大臣を得る事能わず」である。
※3 大正の政変
海軍編で書くが斎藤実の二枚舌に翻弄され、桂の子分木越陸相を無条件で得て、やっと組閣に踏み切った第三次桂内閣は内大臣兼侍従長という前職が禍して、自己を推薦する詔勅を奏請するとは怪しからんと、尾崎行雄の
「彼等は常に口を開ければ、直ちに忠君愛国を唱え、恰も中心愛国は自分らの一手専売の如く唱えておるが、その為すところを見れば、常に玉座の陰に隠れて、政敵を狙撃するが如き挙動をとるものである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代えて、政敵を倒さんとするものではないか」
と詰め寄ったのが、きっかけである。
智謀を以て鳴った桂も万策尽き、悲惨な退陣ぶりであった。
※4 軍部大臣現役制廃止
山本は卑劣な手を使って組閣を行い、軍相は木越、斎藤は留任し、軍部大臣を予備・後備・退役まで範囲を広げた。
その後、長派の圧迫(特に長谷川好道参謀総長)で木越は辞職、一介の技術将校で凡庸な砲兵将軍楠瀬幸彦を後任につける。不運なのは木越である、謀将としても戦将としても卓越していて、大将昇進の論功も充分であったが、桂太郎の失脚後、勢力を失い、この改正の責任者たるを以て、従来の慣例による軍事参議官になる事なく、休職。そのまま予備役になる。
※5 対独宣戦布告
第二次大隈内閣は対独戦参戦し、対華二十一箇条要求を突きつける。
戦中に田中義一の参謀次長就任等、長派の権益拡大・論功稼ぎにつながり、味を占めた田中は後にシベリア出兵を断行したのは言うまでもない。

第一次大戦〜宮中某重大事件 -長州閥の落日-

長州 薩摩
(上原派)
陸大閥
寺内内閣発足(※1)
宮中某重大事件(※2)
山県死去

長州閥 長谷川好道、田中義一、大井成元、大庭二郎、井上幾太郎…等
薩摩閥 上原勇作、町田経宇、田中国重…等
陸大閥 松川敏胤、鈴木荘六、宇垣一成(準長派)、尾野実信、河合操(準長派)、菊地慎之介、白川義則
武藤信義(準薩派)、福田雅太郎(準薩派)、金谷範三(準長派)…等
長州閥は寺内、山県の相次ぐ死で残った政治音痴の長谷川では落日の勢いは止めようがなかった。
薩摩閥は上原が牛耳り、川村は在郷軍人会会長となり、元帥ながら力はなく予備同然と言っても過言ではない。薩長閥が主流を占める中で陸大閥は今だ勢力を伸ばせずにいたが、学閥的に薩長閥に近付く者や、後の権力者達が表面に現れ始めていた。
因みにこの時代に退けられた元帥級の大将は一戸兵衛・秋山好古(自ら辞退したという話もある)らがおり、長派にあらざれば、という最後の時代である。
※1 寺内内閣発足
寺内内閣が組閣し、薩長閥の対立は激化するが、寺内では上原と役者が違いすぎ、参謀総長として上原が睨みを利かせている中での組閣であった。
上原は立派な将軍ではあったが、半面我が侭で日本将校の悪い部分を史上尤も多く、且つ露骨に持っていた将軍で、宇垣曰く「御殿女中の腐った様な奴」と多少言い過ぎの観はあるが、多少問題があったので、人物が優れているという点で元帥は首を傾げたくなるが、事務家としてしか誉めるべき点がない寺内が元帥になるような時代であるし、上原の能力を以てしては仕方がないように思う。
この最中シベリア出兵が起こり、米騒動では在郷軍人会まで動員されて一応の決着を見た。テラナイ内閣の謗りを受け、さしものビリケン将軍も心身を害し、大正七年九月二十一日総辞職に至り、翌年十一月七日世を去る。軍閥の大物であろうと、この軍人宰相は三流であったという事だろう。この時代に薩摩閥の人事が横行した嫌いがある。
※2 宮中某重大事件・山県没
山県は時に天皇を利用したが、理想化された天皇に近付けようとし、それを以て「忠義」としている節がある。
例えば晩年の明治天皇が枢密院の会議で仮眠なさっておられたが、議長席にあった山県はそれに気付き、軍刀の先で床を突き、目覚められた天皇は姿勢を正されたという話である。陛下を弁護させて頂くと、崩御十数日前の話であり、座っておられるのもつらい状態であらせられたのは察するに余りある。山県にとっては弱い陛下を見たくなかった気持ちも解からないでもないが、何事も程々が一番である、「小さな親切大きなお世話」という言葉もある。
話を戻して宮中某重大事件であるが、大正七年春、久邇宮邦彦親王第一女良子女王が内定され、ご成婚は確実と思われていたが、宮内省侍医寮御用係の保利医学博士から良子女王の母方の島津家には色盲の血統が入っているので、この点を御考慮願いたいとの意見書が提出される。その事により山県の例の困った「忠義」の虫が騒ぎ、婚約破棄を提議した。宮内省の熟議の結果、久邇宮家から自発的に辞退してもらおうと、伏見宮家から久邇宮家に婚姻事態の勧告があった。久邇宮家は伏見宮家の出で、邦彦親王は皇族の長老伏見宮貞愛親王の甥にあたり、話は円満に行くと思われたが、事柄はそんな簡単なものではなく、久邇宮は以前断った経緯があり、今になって婚約事態とは何事かと激怒なさり、皇族辞退まで決意なされた。問題は重大である、婚約は既に天下に公表され、これが破棄されたとあれば、久邇宮家の名誉、良子女王の将来に害をなす事は明らかである。しかも、山県の暗躍まで表面化してきて、山県は薩派を憎む余り、旧薩摩藩主島津忠義の孫にあたる良子女王を忌避したという憶測まで出てき、政界の策士達の暗躍により、事は愈々重大化した。大正十年三月二十一日、山県は松方正義と共にすべての地位よりの拝辞を請いた。五月十八日、陛下の御沙汰によって留意するが、政府は「東宮御婚儀は変更あらせられず」という頓珍漢な発表をして、問題に終止符を打ったが、国民の大多数は理解不能であった。少しだけ弁護すると山県は老婆心からの反対であったのは後の処遇を見れば明らかである。この後、山県は一切権力の場に表れず自宅に籠り、大正十一年一月二十一日八十五歳を以て世を去った。

大正時代〜昭和初期 派閥形態の変化 -上原閥の没落- 

田中閥
(旧長州閥)
上原閥
(旧薩摩閥)
陸大閥

(薩長両派に吸収さる)
シベリア出兵続行(※1)
(陸大閥残党)
山梨軍縮(※2) バーデンバーデンの密約(※6)
官金及び分捕金塊横領疑惑(※3) 大正十一年東条英機陸大教官就任
清浦内閣陸相選任問題(※4) 長州人陸大入校阻止運動(※6)
宇垣軍縮(※5)
田中閥
(旧長州閥)
上原閥
(旧薩摩閥)
一夕会、二葉会へ発展

田中閥 田中義一、大庭二郎、井上幾太郎、宇垣一成(準長派)、金谷範三(準長派)、河合操(準長派)
山梨半造(準長派)、鈴木荘六(準長派)、白川義則(準長派)…等
上原閥 上原勇作、町田経宇、田中国重、武藤信義(準薩派)、福田雅太郎(準薩派)
尾野実信(準薩派)…等
一夕会、二葉会 永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機、河本大作、山岡重厚、土肥原賢二、板垣征四郎
小笠原数夫、磯谷廉介、渡久雄、工藤義男、松村正員…等
長州閥・薩摩閥は学閥を取り込んで、後の苛烈を極めた派閥争いの火種となっている。
田中閥は長州専横と言うより、寧ろ学閥的な意味合いの方が強い。
上原閥は薩摩閥と学閥が半々ぐらいであり、まだ藩閥的な意味合いが強い。
陸大閥の残党、いや田中・上原両派に入るのをいさぎよしとしない者らが現れ、その代表格であった永田と小畑、それに岡村が加わり、バーデンバーデンの密約が交わされたことに注目したい。彼らは第一次大戦を目の当たりにし、総力戦という戦争形態への変化に衝撃を受け、未だ藩閥の都合により左右される日本の現状を憂いた。彼らは藩閥打倒を誓い合って、田中長州閥と戦っていくことになる。
※1 シベリア出兵続行
シベリア出兵は田中義一の暗躍によって始まり、第三次まで行われる事になる。負けがない戦争なので長派、準長派の論功荒稼ぎの謗りは的を射ている。
※2 山梨軍縮
師団数と外形をそのままにして、内部に欠隊を作ったので、動員の場合、所望の師団数を得る事が容易であり、戦時四十師団を達成し、軍縮と言いながら実際は兵員数を減らして、機関銃、重砲、航空機等の装備を整えると言う一種のペテンとも言える内容で、軍縮として意味は皆無であったが、なぜか世論の喝采を受けた。
※3 官金及び分捕金塊横領疑惑
田中義一にシベリア出兵の官金横領と、シベリア出兵の分捕り金塊の横領・政治資金流用疑惑が部下から告発され明るみに出たが、揉み消され、不可解ながらあやふやになってしまうが、恐らく流用したのは間違いない。
※4 清浦内閣陸相選任問題
田中は宇垣一成、上原は福田雅太郎を推し、清浦はどちらにも色よい返事をした為、再度薩長軍閥の抗争が始まる。結局田中の暗躍によって宇垣陸相と決まり、上原の権威は徐々に弱まり始める。
※5 宇垣軍縮
山梨軍縮との違いは師団数・兵員数共に減らして、所望(戦時四十師団)の師団数を得る事が難しくなったり、大量の首切りの為、反軍思想は退役将校達も一端を担う。装備を整えると言う一種のペテンとも言える内容で、軍縮として意味は皆無であったが、なぜか世論の喝采を受けた。宇垣を気遣い、そして本人が政界を狙った田中義一を始め、福田雅太郎、山梨半造、尾野実信、町田経宇、石光真臣等、主に上原閥の大物が予備に回され、田中閥は宇垣閥へと移行する。
※6 バーデンバーデンの密約・長州人陸大入校阻止運動
バーデンバーデンで集まった永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次・東条英機が会し、藩閥打破等を話し合った。それにより東条は長州人の入校を阻止し始める。重要な動きだが、この後の変遷は昭和の軍閥に任せ、東条の長州に対する私怨の部分に触れたい。東条英機の父東條英教は前述の通り、寺内と長谷川に目の仇にされ、予備役に追い込まれた。自宅に籠り、「戦術麓の塵」と題する戦術書を著述している。日本軍人による最初で唯一の理論的な戦術書としても評価できるものである。大正二年十二月死去、時に英機は陸大の学生であり、父の挫折を長州人の所為と深く恨むようになった。

戻る