「反日日本人と左翼」



右翼や右寄りな人にとって、左翼は敵である。しかし私は左翼が敵だとは考えない。
真の敵は左翼ではなく反日日本人だからだ。

よりよい方法を模索するとき、多様な考えというのは必須である。全員が右あるいは左であったなら、自分たちの進んでいる方向を客観的に図ることが出来ずに、間違ってしまうだろう。
だから右も左もこの国を良い方向に導くためには必要なのだ。
民主主義というものを見てみるとよい。今や社会主義を貪欲に取り込んで、自らのものとしてしまっているではないか。
もし左翼というものがいなかったら、民主主義(資本主義)はとっくに自壊していたかもしれない。
だから私は思想における左右の対立というのは、絶対に必要なものだと考える。

では日本の左翼と称する輩はどうか?
彼らは断じて左翼ではない。思想的な意味合いでの左寄りでは決してなく、単に日本のことが嫌いで悪口を言っている反日日本人にすぎないのだ。
彼らは反日の手段として左翼・マルクス主義を利用しているのだ。
左翼というのは国家権力の否定、国家解体論に行き着きやすい。だから反日家にとってきわめて利用しやすいのだ。

反日日本人の言うことには論理的整合性が無い。さもありなん。彼らは反日という手段のためにイデオロギーを利用しているのであって、そこに論理的整合性など求めていないからだ。
彼らの主張は変幻自在で、あるときは民主主義擁護を訴え、あるときは環境保護を訴える。しかしそれら主張が他国に向くことはない。何故なら反日のため利用しているだけであり、本当に主義主張が世界中で守られているようにすることなどに興味はないからだ。

ひたすら日本を貶めるためだけにイデオロギーをもてあそぶ者、それが反日日本人だ。

私はこの国が好きである。好きだということを堂々と主張してはばかることがない。同様に日本が嫌いだと主張することも自由だとも思う。
しかし自分が嫌いだからといって、他人にそれを押し付けて嫌いな仲間を増やそう、いや嫌いな人だけにしてしまおうというのは許せるものではない。
嫌いだという主張が認められるなら、好きだという主張も認められてしかるべきだし、両者が存在することは別に矛盾でもなんでも無い。
連中が日本嫌い!とわめくのなら、私もそれに対抗して叫ばざるをえない。日本大好き!!と。
それを国家主義だとレッテル貼りをするのは筋違い、かつ卑怯な行為だ。故郷が好きだという気持ちが国家主義というイデオロギーならば、この世は国家主義者だらけだということになる。
愛郷心は人の自然な心だ。誰しも故郷に愛着を感じるのは当然である。それをデモナイゼイション(悪魔化)することによって反論を封じようとするのは、つくづく汚いやり口だといえる。

また、私は反日日本人の動機の不純さも嫌いである。
連中が我々は先の戦争を反省せねばならないというときの我々には決して彼ら自身は含まれていない。
他者の犯罪を弾劾する行為は愉快なものだ。まるで神の視座を持ったが如くの気分になり、高みから下衆な連中の悪事を裁くという快感が得られるからだ。
それは強者となることの快感といえよう。
連中の欺瞞は戦争謝罪を訴えるくせに、私財を投げうって被害者に寄付をしたという類いの話が一つも無いことから明らかだろう。
あれほど言うのなら、その手の話の一つぐらいあってもいいと私は思うのだが、政府に金を出せといっても、自分から出しましょうと言わないのは、実に不思議と言わざるをえない。

連中は反日によって権力を得ているといえる。それは世論というものを操り、国家権力すら屈服させる。そして悪辣なことに彼ら自身の行動の自由は、国家と民主主義によって守られており、彼らの権力は何物にも縛られることはない。
国家権力すら、法によって規制されているというのに、誰にも掣肘されることなく振るうことが出来る権力とは!!私は反日日本人こそファシズムの名にふさわしいと思う。

我々の真の敵は反日日本人である。左翼にあらず。


図書室へ戻る