皇室典範と女帝論

今、女帝は許されるや否やの議論が再燃焼しつつある。
こうした議論の中で必ず出てくる法、それが皇室典範であり、これには皇位継承や皇族の範囲等を規定しているものである。
では、その歴史と役割、そして過去の皇室典範を巡る議論を簡単に追ってみる。

1.皇室典範の制定過程

皇室典範は新旧の二つが存在し、現在の典範は当然新の方である。
まず旧典範は明治憲法(大日本帝国憲法)と同時に明治22年(1889年)に制定された法である。
明治憲法では74条にて
「皇室典範の改正は帝国議会の議を経るを要せず」
という規定があり、憲法と同じく欽定として制定が行われたのである。
憲法は国の基本法であるから改正の場合は
「勅令を以て帝国議会の議に付す」とされていたのに対し、典範は国会の関与を否定しているのである。改正の必要がある時は、皇室会議及び枢密顧問の審議に諮られることになっていた。
これは皇位継承の順序に関わる事項は臣民の関与を許さないという建前であったからである。
内容は皇位継承や皇族の範囲などの「国の掟の部分」の他に皇室経済についてや皇室の家訓のようなものも含まれていた。

新典範は戦後の新憲法制定に伴い新たに制定されたものである。
まずGHQの憲法草案で皇室典範について「国会の議決した皇室典範」という文言が入っていたことで、日本側が
「皇室典範は国会の支配下に置かれるのか」
との質問に対しGHQ民政部長のホイットニーは
「皇室典範も国会が制定するのでなければ『天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づく』という国民主権の精神にそぐわない」
とつっぱねた。それまで完全に独立の法体系を歩んでいただけに日本側にとっては青天の霹靂であったことは想像し難くない。
この後、政府は臨時法制調査会を発足させ、その第一部会が典範の改正について担当した。そして1946年9月27日に「皇室典範要綱」が作成され、首相に答申された。これが第九一帝国議会衆議院本会議に提出され、原案通りに可決され、続いて貴族院でも無修正で可決され、翌年の1月16日に公布され、5月3日に施行された。
新典範の内容は旧典範に比べかなり条文が少なくなっている。これは皇室経済については皇室経済法として別個の法律とし、典範にはいわゆる「国の掟の部分」しか残らなかったからである。
新旧の一番の差異はやはり憲法の下位である法律になったことであろう。

2.旧皇室典範における皇位継承と女帝問題

旧典範では皇位継承についてこのように定めていた。
第一条「大日本帝国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承す」
これは明治憲法の第二条
「皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を継承す」を受けているのである。
さらに典範では皇位継承の順位を事細かく規定し、9条にて「精神若しくは身体に不治の重患があるとき」は順位変更が可能と規定しているが、女帝についての可能性は全く無く、男系男子が継ぐこととされている。
そして大事なことは第4条で「庶出」を認めていることだ。
「皇子孫の皇位を継承するは嫡出を先にす 皇庶子孫の皇位を継承するは皇嫡子孫皆在らさるときに限る」
という規定があったのである。万世一系を維持し男子をもうけることに、皇室だけではなく、江戸時代の将軍も同じことで、これを可能にしていたのは側室の存在があったからというのも事実である。特に昔は医学が未発達であり、成人にまで達するのも大変なことであった。有る意味大正天皇が皇后との間に4人も皇位継承者をもったのは異例であった。

さて、本題である女帝論はこの旧典範制定時にはどう扱われていたのだろうか。

1875年(明治8年)に元老院が設けられて立憲作業が始まったのであるが、この時、日本古代からの資料を集め、さらに海外の王室の状況や皇位継承の在り方についても研究が行われ、草案作りの参考にされた。
実際1880年の第三次草案では「もし止むを得ざるときは、女統入り嗣ぐことを得」という文言が盛り込まれていた。当時の海外王室の事情を見れば、オランダは1815年の憲法公布により女帝を容認しており、女王で有名なイギリスは既に16世紀以降ずっと女性の皇位継承が認められている。
こうした背景をもとに挿入された文言であろう。
さらには、1885年に宮内省制度取調局が立案した「皇室制規」でも男系男子の原則を掲げながらも、「もし、男系が絶ゆるときは、皇族中、女系を以て継承す」という規定があった。

こうした女帝を認める考えがあったのは、単に外国の例に倣ったわけではなく、日本の歴史上女帝が存在していたからという意味も大きい。すなわち、推古・皇極・斉明・持統・元明・元正・孝謙・称徳・明正・後桜町の女帝が居た事実である。(重祚があるので実際には8人)
しかし、後の文部大臣である井上穀が宮内大臣の伊藤博文に女帝を否定する内容の意見を出し、これを伊藤が採用し、結局継承は男系のみということになった。

井上が女帝を認めなかった理由は何であろうか。
「皇統は男系に限り女系の所出に及ばざるは皇家の成法」とし、では過去に女帝があったことについてはどうなのかというと、
「一時国に当り幼帝の歳長ずるを待ちて位を伝えたまはむとするの権宣に外ならず。之を要するに祖宗の常憲に非ず。而して終に後世の模範と為すべからざるなり」
ということである。
つまり過去の女帝はいずれも次の天皇の橋渡し的なものであり、その後は必ず男子皇族に皇位が移っているので男系男子の伝統がずっと守られていたということである。そして女帝による橋渡しは非常なことであるので、これを認めないというものである。

実際に当時は男系男子の原則を守ることが可能であった。
宮家の数は十分にあり、男系が絶えるような心配はなかった。むしろあまり宮家が多くなりすぎると逆に皇室の威厳が損なわれるし、御料費用も嵩んでしまうため、わざわざ皇族を離脱し、華族となった例も多かった。(これを臣籍降下と呼ぶ。)
しかし終戦による、GHQの占領政策の為、皇族の財産上の特権が剥奪されるに及び、直宮を除く他の宮家は全て臣籍降下となっている。

3.新皇室典範における皇位継承と女帝問題

旧典範との根本的な違いは先に述べた通りである。
戦後施行された日本国憲法第2条
「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」
を受けて新典範では1条で
「皇位は皇統に属する男系の男子が、これを継承する」
としていて、ここでも男系男子の原則が守られている。
皇位継承の順序などもほとんど旧典範と差異はない。

ただ、旧典範では認められていた庶出が認められなくなったことに注目したい。
この問題も制定時に国会で議論があった。
1946年の12月11日の衆院で
「現実的には沢山例があったのでありまして、いま排するということは相当の考慮の余地があるのではないか」
と政府に対し武藤常介議員が質問に立ち、これに対し憲法担当の金森国務大臣は、
「庶子が皇位継承の当然の範囲に入るというふうに致しますことが、国民の常識にぴったりくるであろうか。両性の平等という憲法の精神を汲み取ると、庶子は範囲外とすることが、国民精神の狙い所に合致しているのではないか」
と答えている。
「両性の平等」を建前としているが、このあと述べる、女帝の所でまたこの問題が出てくるのでよく見ていただきたい。


さて、女帝論についてである。
明治に制定する時にも議論になったのだから、民主的と言われる昭和憲法に於いてこの議論が出ないはずがない。
新典範の議案の審議が始まった1946年12月5日の第九一帝国議会が始まった早々に、日本進歩党の吉田安議員が質問に立った。
「何故に女帝を認めないのか。女帝を認めない理由奈辺にありや、ということをお尋ねしたい。今日、新憲法の大原則たる男女平等の原則をその精神といたしまする以上、この点と新憲法の精神といささか食い違いを感ずる次第であります。男女平等を一般国民に要求しておいて、ひとり皇位に関する点においてこれを排除なさる理由については、割り切れないものを感ずる次第であります。よろしく女帝を認めてしかるべきである」

この質問に始まって、政府と野党との激しい議論が展開された。
男子に限定するのは法の下の平等に反するというのが野党側の主張であるが、これに対する政府答弁も色々あった。皇配殿下をどうするか、継承の順序はどうなるのか、等を踏まえ12月16日に金森大臣は次のように述べた。
「女子に皇位継承の資格を認むるかどうかと云うことになりますと、実は幾多の疑惑が起こって来るのでありまして、男系でなければならぬと云うことは、もう日本国民の確信であろうかと存じます。」

もっとも現在の世論調査では全くそんなことはないわけで、この50年の間にずいぶんと国民の意識は変化していると言えるだろう。

ちなみに、後の1959年の憲法調査会で当時典範作成に加わった高雄亮一氏の証言がある。
要約すれば、
1. 過去の女帝はあくまで臨時措置であり、女帝が退位した後は必ず男系に戻っている。
2. 歴史的に一貫して男系主義であり、憲法第2条の皇位は世襲とは「皇統に属する男系の男子」が継承しているという意味である。
3. 憲法第14条の「法の下の平等」の規定があるが、2条はその例外的規定(※)であり、2条の方が優先されるのだから、直ちに憲法違反となるわけではない。

(※)つまり憲法上で2条が存在している事実から、14条と相反するものではないということ。

さらに、
「私どもは男系男子の伝統ということを尊重しようという、出発点から先に立ったような話でありますが、そういうことで立案したのであります」
と述べており、当時の立案者の間では男系男子の原則を堅持していくことが暗黙の了解となっていたということである。そして、女帝を認めた場合に皇配殿下をどうするかということで非常に苦慮したとも述べている。
曰く、
「皇室の歴史では女帝は寡妃となった場合か、あるいははじめから配偶者をもっておられない皇女であるという二つのケースしかなかった。しかし女帝をおくとなると、皇配殿下の問題が起きる。イギリスやオランダのようにprince consortについての伝統が確立しておればともかく、我が国にはそれがない。」
ということである。

最後に

たしかに皇配殿下の問題は非常に難しいところであり、2年や3年議論したところで解決するような問題ではないだろう。
とすれば、現状のままで大丈夫なのかというと不安がつきまとうのは致し方ない。
これから先、皇孫殿下に男子が生じることを祈るばかりである。
適わなければ、臣籍降下された旧宮家の復活も真面目に考えなければならないであろうが、果たしてこれが可能なのであるかどうか、正直自分にはわからない。
連綿と受け継がれてきた皇統を護持し奉る為に、どういう方法があるか、、、議論を重ねる必要があるだろう。

(注)本文中、帝国憲法の条文等読みやすくする為、仮名遣いを変えています。



補筆
  臣籍降下した皇族が即位したただ一つの例


まとめの部分で臣籍降下した宮家の復活について触れたが、過去に一例だけだが、臣籍に下った皇子が即位した例がある。平安時代の五九代宇多天皇である。
折しも藤原氏の時代であり、次の皇位は是非とも我が血筋を持つ皇子をと考えていた藤原基経は五八代光孝天皇を事実上即位させる形にし、光孝天皇もまた自身の皇子らを全て臣籍降下させ次の皇位には基経の外孫にという姿勢をとっていた。しかし光孝天皇の危篤に際して、基経は藤原淑子に説得され、また天皇の意向も踏まえて第七皇子の源定省を皇嗣に推薦し、定省はただちに親王の身分に復帰した後、皇太子となった上で、即位して五九代宇多天皇となっている。

これと今問題となっている旧宮家の復活とは、多少事情が異なるにしても血筋に於いては問題なく、一時的に臣籍に下ったものと考えれば復活も一応先例があることで可能と言えなくもない。
もとより現在の皇室典範では一度臣籍降下した皇族の復帰は認めていないから、当然改正が必要となってくる。女帝論と同時に宮家復活も真剣に議論すべきであろう。

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