粛軍と政治干渉


(注)この文は『統制派と皇道派 -226事件-』をご覧になった後読んでいただくとより理解しやすくなります。

1.挫折した軍部内閣の夢

二二六事件は軍部独裁政権を実現することができなかった。
26日に出された
「諸子の行動は国体明徴の至情に基づくものと認む」
という大臣告示が陸軍首脳の一致した判断であったとすれば、短命にせよ軍部内閣が樹立された公算が大きい。
しかし、叛乱軍の鎮圧の経過にしめされたように、陸海軍の対立はもとより陸軍首脳の間の皇道派・統制派の対立は極めて激しく、とうてい軍部内の一派閥が全権力を掌握することは不可能であった。

その上、叛乱軍が天皇の名のもとに「国賊」の烙印を押されたため、叛乱軍と関係の深かった荒木や真崎らが内閣を組織することは許されないことであったし、統制派にしても叛乱を未然に防げなかった責任を棚に上げて内閣を乗っ取ることなどできようはずがなかった。

むしろ、天皇制の秩序が乱されたという理由で軍上層部に籍を置く皇族が粛軍を要求して結束を固めた。
軍事参議官東久邇宮中将や朝香宮中将、秩父宮少佐らは、閑院宮参謀総長に
「思い切って粛軍を徹底せよ」
と要請し、また当時総理大臣の指名に絶対的な権力を持つ元老歳西園寺公望に粛軍のために
「実力のある相当な人物を後継内閣の首班にすべき」
と申し入れた。
ここで皇道派・統制派が描いていた軍部内閣の夢は消えた。

軍部が政治の全権を握るのを阻んだ要因として、国民の間に反軍部の風潮が強まったことも見逃せない。
4年前の五一五事件の時には裁判長あてに全国から20数万通にも及ぶ「減刑嘆願書」が送られたのに対し、今回は首相官邸の警備にあたっていて叛乱軍に抵抗し殉職した警察官に義捐金が殺到する情況となった。
また、事件の直後から全国各地の国防婦人会が開店休業状態になったり、在郷軍人会への補助金を打ち切る自治体が現れたり、国民学校では配属将校が学生・生徒に詰問されるという事態も起こった。

とくに大衆の間に席巻したのは民政党の斉藤隆夫が行ったいわゆる「粛軍演説」である。
第69回議会(5月4日〜26日)で斉藤は、軍人の政治不干渉の原則を強調し、軍首脳が三月事件以来、軍人による不祥事件を放置したと批判、
「国民は皆憤慨しているが、今日国民はこれを口に出して言う自由を奪われている。しかし、国民の忍耐力には限りがある。」
と述べた。
この演説速記の掲載された官報は、これまで官報など一度も見たことがない市民の間でさえ奪い合うように読まれたほどであった。


2.組閣への干渉

軍部は公然と政権を握ることをあきらめて、組閣人事に干渉して軍の実験を強める方法をとることにした。
昭和11年3月5日、外相広田弘毅が組閣を命じられ、広田は内閣書記官であった吉田茂を組閣参謀にすえて人選にあたった。

陸軍は宇垣閥で統制派の寺内寿一(226の裁判の事実上の責任者)を立てて組閣に干渉した。
寺内は閣僚関係者に対し中島知久平(中島飛行機の創設者で当時は立憲政友会の顧問。)は政友会と関係が深いことを、また外相予定の吉田茂は牧野伸顕元内大臣(226事件で暗殺されかかったが、無事脱出)の女婿であることを、東京朝日新聞副社長の下村宏は自由主義的であることを理由に候補者から降ろさせた。
内相に予定されていた民政党の川崎卓吉前文相は商相に、文相予定の永田秀次郎は拓務相にまわされた。

この要求が容れられると、陸軍は政党出の閣僚が政友会・民政党各2名であるのを1名づつに減らせと申し入れたが広田は、両党との約束があることや、議会政治にさしつかえると断った。軍部としてもまだ政党や議会を無視することはできず妥協した。

この干渉は統制派の武藤章など軍務局幕僚に突き上げられた寺内・川島らが先頭に立って強行したものである。
干渉の理由としては
「人選が自由主義的では時局を収拾して粛軍を成功させることはできないため」
であるとした。まさに粛軍を口実にして、軍部の目指す路線を広田内閣におしつけたのである。
干渉は人事のみにとどまらなかった。

陸軍は寺内の入閣の条件として、
国体明徴
国民生活の安定
国防充実
外交刷新
の4項目の実施を要求し、さらに1937年から45年まで陸軍に毎年8億円の予算を与えよとせまった。
広田は予算についての確約はしなかったものの、それ以外は全部受け入れて3月9日組閣を終わり、3月17日には陸軍の要求を軸にした政綱を発表した。青年将校らの運動は、これほど露骨な政治干渉を可能にする条件をつくりあげていたのである。


3.粛軍

他方で軍部は、二・二六事件に触発されて盛り上がった国民の軍部に対する反感・批判を抑えようとあせった。
この動きが一層強くなれば、軍隊の間に反戦運動が広がる恐れがあったし、軍首脳が裁判所で糾弾されるようになれば、軍の威信は大打撃を被ることになるからである。

そのためまず、二・二六事件関係者の処分を迅速に行った。3月4日に早くも緊急勅令で東京陸軍軍法会議が設けられ裁判がすすめられた。小原直法相は
「司法権までも軍部の手におさめるもの」
と、このやり方に反対したが、北・西田ら民間人(常人)も憲兵隊が逮捕したという口実のもとに、軍法会議にかけられた。
この軍法会議は、陸軍の首脳部や幕僚などが、様々な形で叛乱軍と呼応したことを闇に葬る役割を果たした。
そして事件は、もっぱら北や西田の扇動におどらされた一部青年将校の叛乱に過ぎないと結論づけられ、7月5日に叛乱将校13名と民間参加者4名に死刑の判決が下され、一週間後の7月12日に刑は執行された。
軍法会議の裁判官までも、北、西田は利敵罪に過ぎないと主張したのに、陸軍当局の干渉で「叛乱の主導者」として死刑に処せられた。こうして、ファッショ化の尖兵たちは葬り去られたのである。

このような軌道がしかれたあとでは、粛軍は叛乱軍と関係の深かった将校、つまりは皇道派の人間を解任するだけで足りた。この年の人事異動はこうした「粛軍」人事となった。
3月6日、軍事参議官真崎、荒木、林、阿部の各大将は予備役編入され、皇道派の柳川平助、小畑敏四郎中将や桜会の創設者橋本欣五郎大佐に建川美次中将も退役となった。関東軍司令官南次郎、侍従武官長本庄繁は辞職した。
7月10日には戒厳司令官であった香椎浩平をはじめ、堀丈夫(第一師団長)、橋本虎之助など事件関係者全員が予備役編入された。
8月1日の定期人事異動では3000名という空前の異動が発令された。

こうして軍首脳部における皇道派は一掃され、叛乱軍の鎮圧を強硬に主張した統制派の手に軍の実権が掌握された。陸軍次官には、叛乱軍は鎮圧すべきであるとの意見を真っ先に出した梅津美治郎が就任し、教育総監には宇垣閥の中心人物の一人、杉山元が任命された。
こうして寺内・梅津・杉山が陸軍の中枢部を占め、新統制派と呼ばれた。

参謀本部では作戦課長石原莞爾が、陸軍省軍務課高級課員武藤章や軍事課長町尻量基(石原と同期)とともに、参謀本部と陸軍省に勢力を伸ばした。軍の主要機関はこうして完全に統制派の握るところとなった。それは統制派の提唱し続けてきた、総力戦体制を準備しうる人員配備が一応出来上がったことを意味するのである。


4.庶政一新

統制派の手に軍部の実権が握られると、彼らは政治体制の改造に着手した。
5月18日、陸海軍大臣現役武官制を復活させた。これは陸海軍大臣を現役の大将か中将に限るというものである。
表向きの理由は、粛正して予備役となった皇道派の将軍の陸相就任を防ぐためとされたが、本音は組閣への干渉である。何しろ軍部の気にくわない内閣が組閣されようとしたときは、軍部は大臣を送らないことで、流産させることができるのである。
また、途中で勝手に抜け出して、内閣を潰すことも可能になるのだ。
これによって大正デモクラシー運動の成果がまた一つ消えた。

6月30日、参謀本部と軍令部は総力戦体制の構築を急ぐため、長年の対立をやめて妥協し、国策大綱をまとめ上げた。これは「満州」の支配と東南アジア進出を基本国策とし、それを実現するため外交・政治・経済にわたり「庶政一新」をすすめるというものであった。
8月7日、これが首相、外相、陸相、海相、蔵相の五相会議で「国策の基準」として承認された。

8月25日、庶政一新の国策として、七大国策14項目が閣議で決定され発表された。しかし実際に具体化をはかる中心は、軍務課の幕僚グループと内閣調査局()の革新官僚であって、情報・宣伝の一元化国民教化運動の統一・統制、電力の国家管理など、国家総動員態勢の骨組みがつくりあげられていくのである。


)いわゆる新官僚の拠点となった重要政策の審査にあたる機関で1935年5月に設置された。
   1937年5月に企画庁に改編された。

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