陸軍と派閥

(この文は「皇道派と統制派−226事件−」の補完論文です。)

〜簡易目次〜 (各項目に関連性は皆無)

1.永田鉄山について
2.なぜこの時期に昭和維新か?
3.二二六蹶起将校について(雑記)
4.皇道派全盛期
5.世渡り上手の鈴木貞一


1.永田鉄山について


いわゆる「統制派」の中心人物は陸軍省軍事課長(後、軍務局長)の永田鉄山大佐(後、少将)であります
彼を慕って、またその優れた手腕により統制派に有能な人物を多数集め得たといえる。

日本陸軍80年の歴史の中で特に秀でた人物が二人居るといわれ、その一人が永田その人である。
もう一人の石原莞爾も頭脳の明晰さではひけはとらないが、その人間味等を考慮すると、永田は石原の数段上をいっている。
永田は秀才にありがちな堅苦しい男ではなく、同僚らと語り合いながら酒を煽ったりするのも嫌いではなかった。


そのスケールの大きさをして
「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」
と言わしめた程の人物である。

永田・石原の比較としては
永田が軍政の偉才
石原が軍事の偉才
というところであろう。もちろん石原の軍政能力は優秀であるし、永田の軍事能力も優秀である。
例えば、昭和11年12月、石原が参謀本部作戦課長の時西安事件が起こった。
「大変なことになった」
と石原は大いに憂う。そして軍務局長磯谷少将のところへ行くと
「キミ、蒋介石が軟禁されて愉快じゃないか。うな祝杯をあげてるところだ。キミも上がって一杯飲め」
と上機嫌だったそうだ。
磯谷は陸軍きっての支那通と自他共に認める人物なのだが、その彼でさえ西安事件の重大さに気づくのはずっと後の話だ。
石原の戦略眼の鋭さが窺えるエピソードだ。
・・・とここは永田についてのコーナーなのでこのへんで控えておく。

また永田は読書家であり、毎月の俸給の半分以上は丸善への支払いに充てていたほどだった。
陸軍の読書家というと良識派である渡辺錠太郎が彼に次いでいる。そう言えば本間雅晴将軍もかなりの読書家だったようだ。
荒木人事で軍務局長になった山岡重厚が俸給をもらえば刀剣を買い込んでいたのと比較すると・・・・・。
個人の趣味に口出しするつもりは毛頭ないのだが、こうして比較してみると永田らの方が勉強家という印象を受けるのは致し方ないことである。

余談ではあるが、桜会の三月事件のベースは永田が作ったものらしい。
これは永田が小説でも書くつもりでチャンチャンと書き下した文章を軍事課長室の金庫に置き忘れていたのだと彼は弁明している。


永田は陸士第16期、同僚に元親友、後の敵対者である小畑敏四郎、そして岡村寧次、板垣征四郎、土肥原賢二がいる。
永田はろくに勉強もせずに常にトップだった。同期の小畑は努力家で必死になって永田に食らい付いていったが、恩賜組には入れなかった。
でもこの当時は二人仲良し。よく将棋をさしていたという。後に彼らは仇敵となってしまうのが残念でならない。
ちなみに東条英機は陸士第17期。
あの東條でさえも永田の前では頭があがらなかった。
理由は後に述べるが、相沢事件で永田が斬殺された後も、戦後彼が逮捕されるまでずっと遺族の面倒を見ていた程である。
さらに余談だが、石原も成績は最優秀であったが、区隊長に反抗して優等卒を取り上げられたというのは有名な話だ。上官をヘとも思ってないところが凄いというか。

永田によれば陸軍には荒木・真崎を頭首とする「皇道派」があるのみで「統制派」たる派閥は存在しないという。
皇道派が全盛の時代、つまり荒木陸相時代(犬養内閣時)だが、皇道派に反する者に対して露骨な派閥人事を行い、左遷されたり疎外された者らは反皇道派として団結するようになり、同じく皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に対する統制派なる派閥の頭領にさせられていたのである。
永田自身には派閥そのものに否定的見解を持っていたのだ。

つまりは彼の理想が軍隊を一糸乱れざる統制の下に置いて来るべき総力戦に備えようというものであった為、自己擁護の私心に発する結束、つまり派閥を否定していたのである。


さて、永田の業績(?)であるが主なものをあげると

一、軍隊教育令の編纂
一、戦闘綱要の起草
一、国家総動員計画の立案


である。
特に国家総動員計画の立案は永田の力量を象徴する壮大な出来であり、この内容を読んだ東条英機は感銘し以後、永田を仰ぐようになるのである。
第一次大戦が従来の戦争とは異なる、国家を上げての総力戦であると痛感した永田は、日本の体制の遅れを取り戻すべく、大正13年、欧州視察から帰国するや否や、「総力戦に関する報告書」を発表したのである。
そしてこの論文は陸軍首脳をして驚嘆させ、さっそく、彼の意見が取り入れられ、陸軍省に「資源局」が設けられた。また「動員」、「統制」の課も新設され、彼は初代の動員課長に就任したのである。

彼の政策は対支那派。
彼の死後も、陸軍を支配することとなった統制派が支那事変へとのめり込んでいくのは永田の遺構なのである。(対中一撃論)
が、永田は慎重にじっくり作戦を練るタイプなので、彼が存命してたら芦溝橋事件が発生してもすぐには全面戦争にならなかったかもしれない。もっとも関東軍が常に中央の言うことをチャンと聞くかどーかは甚だ疑問だが・・・。


この点、満州派の石原莞爾は中国からは手を引いて満州を固めるべきという独自の見解をもっていることに注目したい。
つまりは満蒙生命線論、満蒙領有論に端を発するもの。
ただ石原の考えは純粋なもので、その点、永田の現実主義に比べると甘さがあった。
例えば石原は満蒙問題解決にあたりこのような見解を持っている。

@日本の権益思想と、中国の国権回復運動からくるナショナリズムは正面から対立し武力による懸案解決ほかなし。
A満州は法的には中国の一部であるが、現実には五族共存の地であり、日本の権益そのものよりも満州を中国本土より切り離して独立国を造り、満州を王道楽土、五族共和の地にすべき。武力の使用は満州だけに限定する。
B経済的には昭和金融恐慌以来の日本の苦境を緩和することになるが、既成の財閥は一切入れず、その搾取を防止し、政略的には北満を勢力下に治めればソ連の東進は困難となり対ソ作戦に貢献する。
また朝鮮も満州を確保することによって安泰となる。もし将来対米英戦となるときは重要戦略拠点となりうる。
C現在、世界恐慌で足下に火がついている米英は積極的には干渉してこないだろう。ソ連も第二次五ヶ年計画で国力増強に忙しく指をくわえて見えいるだけで出てこない。
また、ソ連の強大化を懸念するイギリスは日本を有力な牽制者として利用するため、宥和的な方針を採るだろう。

というもの。
どことなく甘さがある。
中国は満州を切り離して考えるということは絶対にないだろう。
国権回復ナショナリズムは満州の回復も当然視野に収めている。
既成財閥を入れないと言っても、火の車である産業界が黙っていようか。
イギリスにしても満州を日本に独占される形となるのに、協力してくれるだろうか。(まぁこの辺は外交でなんとかなるやも)

引き替え永田は新興財閥とも協力して満州を開発してくという考えをもっている。
永田の交友関係は幅広い。
三井財閥の池田成彬、東京ガスの太田亥十二など、野口財閥ともつきあいがある。
このへん石原には真似のできないことであった。清濁併せのむというのが永田にはできた。

話を戻して、永田の朝鮮・満州に関する意見が残っている。
これは相沢事件の一ヶ月ほど前に林陸相に同行して朝満旅行をした時のものである。

@関東軍の満州国に対する内面指導は誤りである。これは独立国である満州国にとっては関東軍の内政干渉になる。
A朝鮮は、漸次独立の方向へ持っていって自治に託した方が日本としては得策である。


等々。
おおよそ当時、満州国に対する指導が内政干渉と言ってのける人物は数える程しかいなかっただろう。(左翼を除く)
また、独立運動のくすぶる朝鮮に対しても建設的な意見を残しているのは注目だ。


2.なぜこの時期に昭和維新か?

昭和6年の段階では既に統制派に多数の部署を占拠されていた。
どちらの陣営にも属さない者も、このまま事態が推移すればほぼ間違いなく統制派に傾いていくだろう。
しかし、「226事件」で言う昭和維新がもし成功したとなれば中立派は皇道派になだれ込むことになっただろう。

皇道派が226事件を企てる理由についてはまだ謎がある。
というのも相沢事件の軍法会議の審理経過は概ね皇道派優勢にコトが進んでいた。なにせ裁判関係者の多数が親皇道派だったから当然といえば当然である。
にもかかわらず、なぜ皇道派が蹶起しなければならなかったのか。

その理由として考えられるのが、先に述べたように、中立派を一気に抱き込んで、勢力挽回を図ったというものである。
もちろん、皇道派の温床とも言える第一師団の満州派遣も重要な一因として無視することはできない。

3.二二六蹶起将校について(雑記)

@村中孝次はなぜ陸大に入ったのか。

村中が陸大へ入ったのは出世のためでなく、革新運動を継続するためである。
五一五事件直後に彼は北海道は旭川に飛ばされた。
こんなところでは(北海道在住の方、ゴメンナサイ)満足に運動が行えない。
とすれば陸大へ入れば東京へ出られるので、受験してあっさり合格した。
村中は陸士は別に優等ではなかったが、彼の文章力は素晴らしいものがある。
それは蹶起趣意書を読めばわかる。

A磯部浅一はなぜ主計将校?

これも村中と同じ。
磯部は朝鮮の歩兵第八〇連隊付中尉であったため、満足に政治活動できない。
なわけで、主計課を志願し東京は陸軍経理学校へ入校したのである。

4.皇道派全盛期

犬養内閣成立時、教育総本部長の職から颯爽と陸相に就任した男、それが荒木貞夫中将である。
ここから皇道派全盛時代が始まる。
それまでの経緯を話すと・・・・

昭和6年8月、満州事変勃発の約一ヶ月前の陸軍定期異動で南陸相と金谷参謀総長は、当時第一師団長であった真崎勘三郎を台湾軍司令官に栄転させた。
確かに師団長から軍司令官では役職は上なのだが、このとき真崎は血気盛んな青年将校らに大人気であり、皇道派の頭領として潜在的にではあるが位置付いていた。
その真崎が中央から遠く離れた台湾への就任である。
ある意味島流しと同じである、栄転という名に隠されてはいるが、南陸相は皇道派の増長を断ち切ろうとあえて策を弄したのだ。
日本にはよくあるパターンですな。

困ったのは皇道派の面々である。
青年将校の精神的支柱たる真崎が飛ばされたとあっては、中央に置ける皇道派の劣勢は必死である。
で、当時教育総監の武藤信義(上原勇作の子分的存在)は当時熊本第六師団長であった荒木貞夫を自分の次官級として教育総本部長に据えたのだ。

荒木が上京してきた際、東京駅のホームは出迎えの青年将校で埋め尽くされていたほど、彼の人気は膨張していた。
荒木は青年将校等を自由に自宅へ出入りさせ、「非常時日本」、「皇軍の危機」を常々説き、彼らの下克上精神を逆手に取ることでウマく人気を盛り上げていった。彼の弁舌は冴えに冴えていた。
また、荒木は貧しい少年時代と下級将校時代を送ったことも、農村出身の青年将校らの受けがよかった。
真崎が台湾へ飛ばされた後の皇道派は荒木の独壇場と言っても過言ではない。

ともあれこのような行為は、永田が最も否定するところであった。

さて、犬養内閣成立時に戻ると、
陸軍大臣 荒木貞夫
陸軍次官 柳川平助
参謀次長 真崎勘三郎
軍務局長 山岡重厚
教育総本部長 香椎浩平
とまぁこんな具合です。(香椎は皇道派寄りという立場です)
ちなみに参謀総長の閑院宮、教育総監の林銑十郎はいわゆる反皇道派である。

ま、結局、226後の寺内粛軍(粛軍と政治干渉を参照)で鈴木率道参謀本部作戦課長以外はみんな予備役編入、島流し等で中央から追放される運命なのだが・・・。


時は皇道派全盛時代。
荒木は参謀総長の金谷を追い出すとき、これから皇道派が断行しようとする省部からの反皇道派の一掃人事で成功すれば一気に「荒木陸軍」の確立になる、しかし度が過ぎると独裁と非難されると考えた。
さてどうしようか。
何人かの反皇道派の人間は残すべきか、しかしそれでは足下をすくわれる恐れがある。
限に、永田鉄山をはじめとして反皇道派の人間は息を殺してチャンス到来を待っている。
反皇道派の一掃といきまいたところで、理由もなくクビにしたり飛ばせるものではない。
なおかつ、反皇道派、特に統制派には優秀な人物が多数居て、彼らを追放すると省部の要務に甚大な支障をきたすだろう。

例えば、軍務局長に予定している山岡重厚は趣味が刀剣収集ということもあり、刀剣類の鑑定においては鑑定家顔負けのウデを持っているが、軍政面では素人同然で、とてもじゃないが、現在の軍務局長、統制派の小磯国昭に及ばない。


そこで荒木が思いついたのが、参謀総長に閑院宮載仁親王をひっぱってくることだった。
皇族ならさほど実務面には関わってこないだろう、つまりロボットにしてしまえというのが本音のようだ。
皇族をつかまえてロボットにしようなどとは・・・なんともはや。

ともかくこの構想が実現すれば陸軍三長官は皇道派で占められることとなる。

荒木陸相
武藤信義教育総監
閑院宮参謀総長(だけどロボット)

そのために真崎を宮のお目付役として参謀次長として台湾から呼び戻した。
さぁこれでお膳立ては全て整った。皇道派万歳というところだが、そうは問屋が卸さない。

元帥陸軍大将閑院宮は荒木や真崎が考えたほど単純な人間ではなかった
皇族きっての生え抜きの軍人である宮は騎兵第二旅団長として日露戦争の経験もある。その後も第一師団長、近衛師団長と普通の軍人と比較しても遜色無い人物であった。
宮は真崎の就任に大反対したが、結局は承諾せざるを得なくなる。
なぜ宮は反対したのか。
それは皇室の存亡を最も気にかける立場である宮は何をしでかすかわからない危険な青年将校の扇動者の荒木・真崎を嫌ったのである。
特に真崎はこのお目付役という経緯で、宮に徹底的に嫌われた
さらに既に宮は陸軍次官の杉山を通じて、親統制派になっていたのである。

宮に嫌われること=皇族を敵に回すようなもんである。
このツケは真崎の教育総監辞任事件(皇道派と統制派-226事件-参照)に回ってくるから歴史とは面白いものだ。

荒木は先の構想を実現するために、このような派閥人事を行ったのである。
簡略表化すると・・
役職名 氏名 - 異動日 異動先   後任者 派閥
陸軍次官 杉山元






昭和7年3月 第一二師団長 小磯国昭 統制派
参謀次長 二宮治重 昭和7年1月 第五師団長 真崎勘三郎 皇道派
軍務局長 小磯国昭 昭和7年2月 陸軍次官 山岡重厚 皇道派
参謀本部第一部長 建川美次 昭和6年12月 ジュネーブ軍縮会議随員 古荘幹郎 中立
(ほとんどロボット)
参謀本部第二部長 橋本虎之助 昭和7年4月 関東軍参謀長 永田鉄山 統制派
参謀本部第三部長 沖 直道 昭和7年2月 教育総本部運輸部長 鈴木率道 皇道派
参謀本部第四部長 広瀬 猛 昭和8年3月 陸大校長 西尾寿造 中立
人事局長 中村孝太郎 昭和7年2月 支那駐屯軍司令官 松浦淳六郎 皇道派
軍事課長 永田鉄山 昭和7年4月 参謀本部第二部長 山下奉文 皇道派
参謀本部作戦課長 今村 均 昭和7年2月 歩兵第五七連隊長 小畑敏四郎 皇道派
教育総本部長 川島義之 昭和7年5月 朝鮮軍司令官 香椎浩平 皇道派
憲兵司令官 外山豊造 昭和7年2月 台湾守備隊司令官 秦 真次 皇道派

先に述べたように統制派の永田・小磯は省部に生き残った。
さしもの皇道派もこの有能な二人を飛ばすことはできなかった。
永田はわかるが小磯はそんなにデキがいいのかと疑問を抱く方もいるだろう。
実は小磯は軍政面でも勿論優秀であったが、また世渡り上手な要領のよさを併せ持っていたのが、彼の首を繋ぎ止めたのである。
だいたい、陸大卒業序席20番以下で彼以上に出世した者はいない・・。

余談はともかく、彼は形式上は軍務局長から次官への昇進である。
これも先にあったようなよくあるパターンの人事なのだ。
軍務局長は陸相と直結しており、次官はその間の取り次ぎに過ぎず、職務上の権限で言うと、明らかに軍務局長職より劣るのである。
さらに小磯は遂に、その8月には関東軍参謀長として中央から飛ばされた。その後の次官には皇道派の柳川平助が意気揚々と騎兵監から昇進して就任した。

このようにして、皇道派全盛時代が築かれたのである。
この時点では統制派永田がいくら優秀であろうとも如何ともし難い。
ただただ時の来るのを待つだけである。

さて、この皇道派の時代、荒木は「皇国の軍人精神」や「全日本国民に告ぐ」等の演説を行い、また将校の帯刀しているサーベルを日本刀に変えさせる等いろいろなことをした。
しかし荒木の口走ることは、実は内容は空虚であったりしたため、反皇道派の人物は苦々しく思い、また結局は彼の人気を断ち切る結果となる。

血盟団によるテロから五・一五事件に怯んだ荒木は青年将校から
「荒木はダメだ、口舌の徒である」
と言われ、桜会から流れた清軍派の橋本欣五郎からは
「荒木は明治神宮の宮司にでもしておけ」
等と言われる始末で、この頃から皇道派の主流は荒木でなく真崎に移っていったのである。


昭和9年1月。
荒木は正月酒を飲み過ぎて風邪をこじらせ肺炎になってしまい、これが思いの外長引くようなので陸相を辞任せざるを得なくなった。
で、後がまについたのが、この時点では中立派と見られていた林銑十郎である。
で、林の元いたポストの教育総監に真崎が就任した。
この二人、実は結構仲が良かった。

林が待命一歩手前であったところを真崎が助命運動を行い、東京湾要塞司令官から陸大校長に返り咲かせてやったことがあり、また真崎が第八師団長から栄光の第一師団長への昇進は林の工作がなければ実現しなかっただろう。

こういう経緯もあり、二人は仲良くやれる・・・と思ったのだが、ここにきて正面衝突する。
原因は永田鉄山である。
林は永田の手腕を高く評価し、彼を歩兵第一旅団長からつれてきて軍務局長に就任(昭和9年3月)させたのがキッカケ。
真崎は永田を敵視していたので、彼をひっぱってきた林と対立することになってしまったのだ。

真崎が第一師団長の時、歩兵第一連隊長には東條英機、第三連隊長には永田鉄山がいた。
もちろん彼らの隊付勤務は昇進の為のものであり、ずっとこの地位に居座るものではない。(陸軍発の軍閥 桜会を参照)
それはともかく一応上司であるから永田も東條も真崎の家に出入りすることがたびたびあって、真崎も永田らの能力の高さをよく熟知していて、可愛がっていた(つもりだった)。
が、永田はあっさりと自らの道を踏み出して真崎から離れていった。
もちろん、真崎はカンカンである。可愛さ余って憎さ百倍とはまさにこのこと。

さて、この時期陸相になった林だ。
林はもう自ら望んだのかどうかはわからないが、ほとんど永田のロボットであった。
陰では「永田陸相」なる声もささやかれた。
もともと林は気の弱いというかいい人だった。
満州事変の越境出兵問題で、「統帥を乱した」とこれが中央で認められるまで心配でメシもろくにノドを通らない有様であった。
何も知らない世間は彼を越境将軍などと呼んだが、本人は気が気じゃなかった。


翌年の昭和10年に相沢事件で永田が倒れると
「永田を殺したのは俺の責任だ」
と悔やむ一方で、次に皇道派の兇刃が自分を襲うのではないかとあわてて陸相を辞任した。
後から考えると絶妙のタイミングで辞めたことになる。
なぜなら後任の陸相川島義之であるが、突然の出世に歓喜した彼の前に待っていたものは、荷が重すぎる「二・二六事件」であった。
もうこの頃は林は統制派の人間と周囲に思われていたので、陸相を続けていれば、間違いなく二二六事件で暗殺されていただろう。

5.世渡り上手の鈴木貞一

もうこの人はすごい。
何がすごいかって、その身の振り方が絶妙であるからだ。
悪く言えば厚顔無恥、よく言えば世渡り上手ということか。
彼の行動を追ってみる。

最初、永田軍事課長の下でがんばってた鈴木は、荒木が陸相になって形勢逆転、皇道派が有利となると、すかさず、軍務局長の山岡重厚に近づいていった。
鈴木は山岡を訪ね、彼の趣味である刀をみやげに皇道派に入った。
時は流れ荒木から林(統制派)の時代がやってきた。
すると今度は永田の家に「ご近所まで参りましたもので」といけしゃぁしゃぁと訪ねてきた。
まだこの時は永田は軍務局長になってない。鈴木はそれを見越しての行動であったからさすがというか・・・。

とはいえ、今度は永田が鈴木を寄せ付けなかった。
ま、コロコロ心変わりするから避けたんだろう。
だが、そんなことでヘコたれる鈴木ではない。
「じゃ次の手だ」
と言わんばかりに、西園寺公望の秘書の原田熊雄と親しいのをツテとし、近衛や木戸に接近していった。
そりゃもう次々と政財界人に渡りをつけていったのだ。
昭和15年には、ようやく彼の地道な努力(?)が実って興亜院総務長官となり、翌年からは入閣(企画院総裁)までして、さらには貴族院議員にも名を連ねるようになる。

いやはや、並みの人間ではこうはいかないだろう。
これも一種の才能だと関心するか、あきれかえるかは、みなさんの判断にお任せしたい。
要領のよさでは自身覚えのある小磯国昭でさえ、鈴木には舌を巻いていた程というから面白い。

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