陸軍初の軍閥 桜会

結成は昭和5年の9月頃であったと言われる。
発起人は橋本欣五郎(砲兵中佐)、坂田義郎(歩兵中佐)、樋口季一朗(歩兵中佐)などの10数人であった。
なぜ、わざわざ階級まで書いたのかというと、桜会は完全なる少壮幕僚によるグループであり、具体的に言うと中佐クラスまでしか会にはいることは出来なかったのだ。
昭和陸軍初の派閥である。まぁ今まで一夕会とかあったが、一つの組織的な政治活動などを行ったのは桜会が初めてである。

結成当初の会員数は96名であった。
彼らを配置別に分類してみると

陸軍省 9名
参謀本部 38名
教育総監部 2名
陸軍大学校(在籍中) 15名
憲兵司令部 7名
そのほか 25名

となっている。

参謀本部にこれだけの人員がいるのはすごいことである。
桜会はほとんど参謀本部所属の陸大卒少壮将校(中堅幕僚)によって構成されていたと見ていいだろう。
ついでに、桜会の者で陸大を出ていない、陸士あがりの課員が2人いる。秋草大尉と天野中尉である。
この二人は陸大を出ていないのに参謀本部に配属されたということから相当な実力をもっていたようである。

例えば秋草大尉は、近衛歩兵第一連隊から東京外語へ委託学生として覇権され、ロシア語を修得し、かなりロシア語に堪能であったと定評があった。
また、昭和13年7月に創設された後方勤務要員養成所の創始者でもある。後方勤務要員養成所、後の陸軍中野学校(通常東部第三三部隊)のことである。

また桜会には有名な人間が数多く在籍している。
名を挙げてみれば、
牟田口廉也、根本博、河辺虎四郎、土橋勇逸、武藤章、富永恭次、長勇、片倉衷、辻政信・・・
などは少し陸軍のことを知っている方なら「ああ、あの人か」とすぐ思いつくだろう。

さらに余談であるが、陸士卒と陸大卒の大きな相違は陸士卒が退役までずっと隊付将校として軍隊の骨幹を形成するのに対し、陸大卒にとっての隊付は全然違う。
一定年月隊付勤務をすることは単に出世のためのワンステップであり、将官に昇進直前になって隊付期間の不足を理由に予備役編入された例もあるくらいだ。

大抵の陸大卒業生は原隊へ復帰して中隊長等の職務について1,2年後、中央三官衛の各課に配属されるのが普通であった。一部の者は陸士や歩兵学校の教官、軍、師団の参謀に派遣されることもあった。これは卒業序列の上のものからいいとこへ行けると解していいだろう。
(また恩賜組には権利みたいものがあってこれを「株」と称していた。)
ついでに、陸士の教官は陸士出が担当することになっていて、昭和9年8月に辻政信(当時は大尉)が陸士の中隊長になったのは異例のことであった。
これは彼が強く希望して実現したもので、辻はこの職務において士官学校事件に関与することとなる。もとよりこれを狙っていたのは間違いあるまい。
恩賜の軍刀を授かる優秀な成績で出た者には先に述べたように海外派遣か、作戦関係の部署に配属された。
話を戻して・・・。

会の目的は端的に言うと
「国家改造を以て終局の目的となしこれがため、要すれば武力を行使するを辞せず」
ということであり、3月事件、10月事件に暗躍した。

3月事件とは、昭和6年3月、桜会の橋本、長ら中堅将校が立案して、それを小磯国昭軍務局長、建川美次(参謀本部第二部長)、重藤千秋(参謀本部支那課長)らが支援した。密かにではあるが陸軍次官杉山元、参謀次長二宮治重も支援者であった。
さらに大川周名、徳川義親、清水行之助ら民間人に亀井貫一朗、赤松克麿の無産政党までもが加担していた。

シナリオは、今開催中の議会(第59回帝国議会)を大川・亀井等が一万人の大衆を動員して議事堂を包囲し、鎮圧の名目で軍隊を出動させる。この混乱に乗じて宇垣陸相を担ぎ出して軍部独裁政権による国家改造を断行しようとするものであった。
が、結局この計画は宇垣・小磯らの動揺→変心で中止となった。

実はこのシナリオの土台となったのは永田鉄山が計画案を立案し、それを橋本らが編集し直したという話もある。

事件に対する首謀者の処罰もなくウヤムヤに終わったおかげで、満州事変の当事者にある程度の安心感を覚え、10月事件へ、青年将校は226事件へと波及することになろうとはこの時、陸軍中央は想像もしてなかった・・・。
3月事件については陸相宇垣も一枚噛んでいたし、彼らを取り締まるべき立場である軍務局長らでさえ加担していたのだから証拠隠滅も可能であった。
ちなみに宇垣らが支援したのはただ若い連中から取り残されるのを恐れた為であったという。折しも下克上の空気が蔓延していたのが一因であろう。

のちに内大臣木戸幸一は東京裁判において
「3月事件がその後もろもろの事件の元凶である」
と指摘した。さすがに鋭い洞察力を持っている。だてに内大臣という要職を任されてはいないのだ。


同年10月には、同じ桜会メンバーで今度は9月に石原・板垣らが中心となって勃発させた満州事変を成功させるための国内改造を狙い、当時青年将校らから大人気であった荒木貞夫教育総本部長を首班とする革新政権を樹立せんとした事件、10月事件が起こった。
橋本欣五郎はこれを「錦旗革命」と称した。
さて事件は起こったというよりも今回もまた、未遂に終わったのである。
これは荒木に担がれる気がなく、内部分裂、脱落なので結局断念せざるを得なくなったというものである。
今回の首謀者達には転属・訓告など軽い処分を受けたが、今回もまた上層部には波及しなかった。


しかし桜会はこの事件をもって一応解散となり、派閥的には少数派である清軍派に転落していった。
清軍派は皇道派を嫌い、後の皇道派と統制派の対立の中で統制派に加わっている。
さらに付け加えると、石原らの満州派が統制派に加わったものを「新統制派」と呼称する場合があるので気を付けておきたい。


軍人の政治介入に関して、宇垣は戦後回想録の中で、自分自身は三月事件に関わりなかったと述べている。
しかし、彼が無関係であろうはずもなく、桜会に便乗する形で内閣首班を考えていたであろうことは否定できない。
そういえば、陸相を通じる以外の軍人の政治関与は軍人勅諭でも
「世論に惑わず政治に拘わらず・・・」
と禁じられてきたところ、昭和6年1月に陸相宇垣自らが
「国防は政治に優先する」
と述べて、軍人の政治関与を是認しているではないか。

ともかくも宇垣の人望はこの三月事件で完全に潰えたと言える。
後の昭和12年に広田内閣の後を受けて組閣の大命が彼に下ったが、陸相のなり手が得られず、流産内閣となった。
これは宇垣軍縮の復讐というよりも、三月事件での心変わりへの反感によるものと言えるだろう。

三月事件のあと、宇垣は浜口内閣の余命が短いことを確信し、サッサと伊豆長岡の旅館に引きこもった。いずれ自分にお鉢が回ってくるだろうから、それまでのんびりしようと思ってたのであろうが、4月14日に第二次若槻内閣が成立し、6月になってようやく彼に回ってきたのは予備役編入と島流しとも言える朝鮮総督のポストだった・・・・。

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