海軍工廠の歴史と役割

【目次】

-海軍艦艇偏-

 1.横須賀造船所の建造
 2.海軍工廠と各部門について
 3.民間造船所の役割

-海軍航空機偏-

 4.海軍航空廠、海軍航空技術廠について
 5.民間工場の役割

1.横須賀造船所の建造

皆さんの想像通り、後の横須賀海軍工廠となる、横須賀造船所は明治維新前の元治元年(1864)に幕府がフランス政府の援助をもとに、大型艦建造のための造船所を建造しようと、勘定奉行小栗上野介忠順とフランス公使のレオン=ロッシュらが中心となって造船所建設計画を進めていった。

計画では造船所を当時の横須賀村に建設することとし、フランスのツーロン軍港を模倣する形で用地7万4千坪を用意した。
その規模は船渠を大小2、船台3やその他の諸施設を合わせて総経費240万ドルという莫大な資金をもって、四カ年継続事業で横須賀製鉄所を建造するという壮大なものであった。
 (横須賀造船所と名称がかわるのは後のこと)
ちなみに経費240万ドルのうち100万ドルは輸出生糸を担保とするフランスからの借入金であった。


さて、建造は慶応元年の9月に起工式を行い、フランス海軍技師のウェルニーの指導の下に着々と進められた。
慶応2年3月には第一船渠の開削に着手したのである。
そして、明治維新後、明治政府が幕府から受け継いだ明治元年4月の横須賀製鉄所は船渠1,船台2の工事がほぼ完了するところまでできあがっており、既に船艇8隻が完成しており、建造中の艦は11隻もあった。
工場家屋にしても落成坪数は3200坪、未完成部分は約2000坪という状態であった。

この時の横須賀製鉄所建造スタッフは
製鉄所奉行 一色摂津守以下45名
職工65名
お雇い外国人はフランスの主任技師ウェルニー以下45名
の計155名であった。

明治政府が幕府から収納した時点では、フランスからの借入金の担保としてフランスから差し押さえを受けていたので明治政府はフランスの仇敵であるイギリスの財政援助を得て、製鉄所をフランスから取り戻すことができた。
それ以来、この製鉄所は大蔵、民部、工部の各省の管轄を経て、海軍省の所管となって落ち着くのである。

さて、工事はまだ続いており、明治4年には第一船渠が建造から5年を経てようやく完成し、同製鉄所は同年4月7日付けをもって「横須賀造船所」となり、明治30年9月3日に横須賀海軍造船廠と改称され、さらにその後明治36年11月5日に海軍工廠条例により横須賀海軍兵器廠と合併し、「横須賀海軍工廠」となったのである。

2.海軍工廠と各部門について

海軍工廠といえば、艦船や兵器の建造修理や開発実験などを行うところであるが、各地の海軍工廠は全て同じではなくそれぞれに専門的部門を担当していた。
横須賀海軍工廠 横須賀鎮守府に所属し、工廠内に造兵部、造船部、造機部がおかれていた。
また、光学、機雷、航海、通信、電池、機関の実験部もあった。
呉海軍工廠 呉鎮守府に所属し、明治36年の海軍工廠条例により創設される。
砲熕(ほうこう)、火工、水雷、電気、造船、造機、製銅の各部の他に
潜水艦の砲熕、魚雷、電気、製銅の4実験部があった。
佐世保海軍工廠 佐世保鎮守府に所属し、明治36年の海軍工廠条例により創設される。
造兵、造船、造機、航空機(昭和16年10月1日廃止)の各部があった。
舞鶴海軍工廠 明治36年の海軍工廠条例により創設されるが、大正12年に一度廃止される。
昭和11年7月1日に再び設置された。
造兵、造船、造機の各部と機関実験部があった。
豊川海軍工廠 横須賀鎮守府に所属し、昭和14年12月15日に創設される。
機銃部、火工部、光学部(後に設置さる)の造修部があった。
広海軍工廠 呉鎮守府に属し、大正9年に呉工廠広支廠として創設さる。
航空機(昭和16年10月1日廃止)、造機の各部と機関、工作機械の実験部があった。
光海軍工廠 呉鎮守府に属し、昭和15年10月1日に創設さる。
砲熕、水雷、製鋼の各部があった。
では次に各部の内容について簡単に紹介する。
以下に掲げる専門事項の他に、各造修計画や製図、様々な工事方式、費用概算や、所属する工員などの教育も行っている。
教育については大正8年に横須賀工廠内に設置された海軍技手養成所が、工員に技手となるべき海軍技術を教授した。
                 (↑昭和3年に呉工廠に移動された。
造兵部・・・・・兵器の造修
砲熕部・・・・・砲熕の造修、光学兵器の造修
火工部・・・・・火工、化学兵器の造修
水雷部・・・・・水雷、航海兵器の造修
電気部・・・・・無線、電気兵器の造修
造船部・・・・・船体の造修
造機部・・・・・機関の造修、鋳物の造修
製鋼部・・・・・鍛造材、圧延材、鋳物の造修

続いて、各実験部に同様に紹介する。
砲熕実験部・・・・・・砲熕兵器やその材料の実験、火薬類の取り扱いや貯蔵・検査方式の実験
光学実験部・・・・・・光学兵器やその材料の実験、光学の応用や偽装の実験
魚雷実験部・・・・・・魚雷関係兵器とその材料の実験
機雷実験部・・・・・・機雷、掃海、対潜兵器とその材料の実験
電気実験部・・・・・・電気兵器とその材料の実験
通信実験部・・・・・・通信関係兵器とその材料の実験
航海実験部・・・・・・航海関係兵器とその材料の実験
電池実験部・・・・・・電池とその材料の実験
造船実験部・・・・・・船体とその材料の実験
機関実験部・・・・・・機関とその材料の実験
製鋼実験部・・・・・・鍛造材、圧延材、鋳物の実験
工作機械実験部・・工作機械とその材料の実験
潜水艦実験部・・・・潜水艦の造修に関する各部の事務統一、諸性能の実験など

さて、もっとも基本たる軍艦の建造にもそれぞれの工廠ごと割り当てが海軍艦政本部で決められている。
次の表をご覧頂きたい。
(この中には民間造船所は含まれない、民間造船所については後述することとする。)

戦艦 、横須賀
空母 横須賀
大型巡洋艦
軽巡洋艦 佐世保
駆逐艦 舞鶴、佐世保
潜水艦 、横須賀、佐世保
水雷艇 舞鶴
また、各期軍備計画における第一の同型艦建造を行う工廠も決まっていた。
これは、設計図や諸資料の整備、関連する各種研究を円滑に行うためあらかじめ決まっていたのである。
上の表の一番左に位置する工廠がその任を負っている。(黄色字の工廠)

一目で見て呉工廠が多く、舞鶴工廠が少ないのがわかる。
これは呉工廠が一般的共通事項を主として担当するという役柄があり、まさに海軍造艦の要といえる工廠だったと言える。
逆に舞鶴工廠は軍需物資の補給基地としての性格を有する為、艦種の割り当てを軽減してあるのである。
民間造船所への割り当て等については次で説明申し上げる。

3.民間造船所の役割

海軍工廠は終戦と共に消えてしまったが、民間造船所は多少の名称の違いこそすれ現代でも残っている。
現在の海上自衛隊の護衛艦を手がけている三菱長崎造船所などは名前だけでも聞いたことがあるだろう。

帝国海軍にとって民間工場にかける役割は非常に大きいものがあった。
造船だけでなく、航空機の生産もそうであるし、各種軍需品の生産において民間工場を抜きにして語ることはできないであろう。

元来、帝国海軍では建軍当初から先に述べてきたような工廠などある程度の設備を自ら保有する一方で、民間工場の育成と向上に努力してきたのである。
なので、軍縮などで事業不振となった時期には海軍や政府の施策として、民間工場の能力を温存する各種方策を講じた。
今で言えば官民癒着と批判を受けるであろうが、当時の日本の政治・経済情勢からすると、仕方なかったと言えよう。

では各民間造船所と、その建造分担について表に表してみる。
造船所 割り当て艦種
三菱長崎造船所 戦艦、巡洋艦
三菱神戸造船所 潜水艦
三菱横浜造船所 各特殊艦
川崎造船所 空母、巡洋艦、潜水艦
石川島造船所 駆逐艦
浦賀造船所 駆逐艦
藤永田造船所 駆逐艦
三井造船所 潜水艦
同型艦の第一艦を担当海軍工廠で建造し(前項目参照)、第二艦以降の建造を他の海軍工廠とこれら民間造船所で行った。
(注)三井造船所への割り当ては昭和16年8月の戦備計画以降のことである。

例えば、戦艦大和の建造を見ると、一番艦たる大和は、呉で、二番艦たる武蔵は長崎造船所で建造されたのである。

4.海軍航空廠、海軍航空技術廠について


海軍航空の始たる海軍航空廠は昭和7年4月1日に設置された。
これに伴い、従来あった海軍技術研究所の航空部門と、先述の横須賀海軍工廠内の航空機実験部や航空発動機実験部は廃止され、海軍航空廠に吸収される形となった。

指揮系統は、海軍工廠長が横須賀鎮守府司令官に属し、航空技術研究に関しては海軍航空本部長の指示を受けてその任に当たった。
大きく分けて、次のような所掌事項があった。
1.航空兵器の設計および実験
2.航空兵器および材料の研究・調査・審査
3.(2)に関する諸種の技術的試験
4.必要に応じ航空兵器の造修、購買
である。
また、各技術において専門部門を設けていた。
すなわち、
 科学部
 発動機部
 飛行機部
 飛行実験部
 航空兵器の艤装
 航空に関する実験心理学の応用
 適性検査の実施
 材料部

となっていた。

さて、この海軍航空廠は、昭和15年4月5日をもって、「海軍航空技術廠」と改称され、組織も一部改変された。
改変された各専門部について簡単に紹介すると、
科学部 航空機および関連する機材の流体力学的研究と航空機の一般物理的研究とその調査
発動機部 航空用発動機(エンジン)およびその属具(構成部品)の設計や実験研究、さらには発動機の造修計画や製図、工事方式など
飛行機部 飛行機機体やその属具の設計や実験とその造修、飛行機兵装の計画や製図、工事方式の作成
飛行実験部 航空機の飛行によって行う実験など
兵器部 航空兵器(航空用射撃兵器、爆撃、雷撃、偵察、観測、通信用兵器、光学・電気の各兵器や計器類)とその属具の設計、実験、調査研究や兵器の装備設計など
航空兵器の弾道および雷道の実験研究も行う
発着機部 艦船兵器、その属具および航空基地用兵器とその装備の設計や実験研究、調査
艦船に装備する航空兵器の造修に関する計画など
材料部 航空関係の材料の基本的研究と調査
航空兵器とその属具の粗材製作法に関する実験、一般分析など
爆撃部 爆弾およびその属具の設計、実験、研究など
これら、海軍航空(技術)廠の設備は列強各国と比較しても何ら遜色はなく、特殊部門においては欧米のそれを凌駕するものさえある。
例えば、大風洞や大水槽、材料試験場などはこれほどの規模のものは日本にしかなかったのである。

さて、この航空廠でも、民間との連絡を密にしていた。
部外研究機関との連絡を保ちつつ、民間航空技術者の養成を行っていた。
共同研究や資料交換などは頻繁であった。


昭和16年10月1日、海軍航空廠令が制定された。
これは先述の航空廠とは異なるものである。
この令により新設される航空廠は、鎮守府または警備府に属し、航空兵器およびその材料の造修や購買、保管や供給を担うこととされた。
こうして新たな航空廠は番号を付けて各地に設置されたのである。
第一海軍航空廠 (霞ヶ浦)

第二海軍航空廠 (木更津)
 同支廠 (大湊)→*昭和17年に第四十一海軍航空廠となる

第十一海軍航空廠 (広、大分)
 同支廠 (舞鶴)→*昭和17年第三十一海軍航空廠となる

第二十一海軍航空廠 (大村)
 同支廠 (鹿屋)→*昭和19年4月に第二十二海軍航空廠となる
 同支廠 (鎮海)→*昭和17年に第五十一海軍航空廠となる

第六十一海軍航空廠 (高雄) 

5.民間工場の役割

海軍機で、いや日本戦闘機として有名な零戦は三菱製である。

海軍における航空機の生産は主として民間工場に依存しており、造船以上に民間を重用していた。

もちろん海軍自らも若干の設備を保持しているが、試作や修理を中心としていたのである。
従って、海軍としては民間工場の育成、すなわち民間航空技術者の養成に万全を期していた。
我が国の航空機工業は当初から陸海軍の必要を充たすために興ったもので、専ら軍需工場として発展していったのである。
では、海軍が航空機工業に対してとった政策はどのようなものであったか、その原則を見てみると、
1.機体および発動機の試作は二社以上に競争的に行わせることを原則とする。
2.製造は民間会社に指定割当する
3.修理は海軍工廠で担当する
であり、直接生産を受け持つ民間の役割は非常に大きいと言える。
試作は海軍側でも行うが生産となると完全に民間への発注となるからである。


先述のように日本陸海軍は重要新型機種の開発に際しては、2社または3社に競争試作を行わせる方式をとり続けた。
また純粋な国産機を目指した為、試作に際しては一切の外国人による設計を排除するという条件を設けて、競争試作を行わせた。
発動機の試作については、長期継続する実験経験を必要とした関係もあり、競争的に行う原則は必ずしも守られてはいなかったのが実状である。
さらには技術水準も向上し、中型機以上の機種や練習機は最初から1社指定で行われることもあった。
なお、昭和7年に、海軍航空廠(後の海軍航空技術廠、詳しくは前項を参照)の設立によって、機体、発動機の自立政策をとるようになり、強力な研究機関を併設し、民間への設計資料の供給を積極的に行いつつも、海軍としても特殊な機体や発動機の設計を行うようになった。

さて、競争試作の最初は水上偵察機で、これは三菱、中島、愛知の3社が競った。
次いで昭和4年に艦攻で、三菱、中島、愛知、川西の4社・・・と、続き、この過程で優秀な国産機が輩出されたのである。
初期の競争試作の中で代表的な採用機といえば、
 ・九四式水上偵察機
 ・九六式艦上戦闘機
 ・九六式陸上攻撃機
などがある。


生産面において、各航空会社間の競争は行われなかったが、設計の優劣で生産注文が決まった。
支那事変以降の航空機増産の時期になると、各民間工場は軍の命令によって生産拡張が行われた。
すなわち、昭和13年に始まる第一次、第二次、第三次の生産拡充命令によって民間航空会社は急激に拡張されることとなった。
最後に各民間航空会社の設立時期を一覧にしておく。
 (*上から古い順に)
会社名 設立時期
三菱重工業 大正5年頃
中島飛行機 大正6年
川崎航空機 大正8年
川西航空機 大正9年
日立航空機 大正9年
九州飛行機 大正11年
立川飛行機 大正14年
日本飛行機 昭和10年
石川島航空機 昭和11年
富士飛行機 昭和11年頃
日本国際航空機 昭和13年
昭和飛行機 昭和13年


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