B−29の爆撃照準器

ボーイングB−29スーパーフォートレスは、第二次大戦で日本を爆撃するために開発された戦略爆撃機であると言われる。しかし1939年の計画策定では、B−17(ストラトフォートレス)より航続力があり、爆弾搭載量が大きい、超長距離爆撃機としてであった。42年9月に最初の試作機が完成、量産1号機が米陸軍に引き渡されたのは約1年後の43年7月だった。45年の8月の日本敗戦時に所属していたB−29は2132機で、日本本土空襲のマリアナ基地であったグァム、サイパン、テニアンには1000機以上が配備されていた。

B−29は1万メートルの上空から戦略目標に対し、超高度昼間ピンポイント爆撃をするために、当時の最高技術でつくられたノルディン爆撃照準器が搭載されていた。この照準器はB−17にも搭載され、ドイツ戦線では昼間戦略目標へのピンポイント爆撃は米軍のB−17が行い、夜間の無差別爆撃を英軍機が行っていた。

B−29による最初の長距離爆撃は44年6月5日に、インドのアッサム基地からバンコクへの爆撃で、その10日後に中国の漢口から八幡製鉄所への爆撃が行われた。

米軍の攻撃目標は何よりも東京であった。B−29の発進基地とするため、米軍のマリアナ諸島奪還は予定よりも3ヶ月早めた。マリアナ基地を奪還すると、鉄板を敷いて飛行場を整備し、欧州戦線から優秀なパイロット達がマリアナに転属された。サイパンからの本土攻撃は44年11月から始まる。45年2月いっぱい20回の攻撃で航空機産業を目標にピンポイント爆撃をしたが、命中率は1割だった。

45年3月末の沖縄上陸作戦が近づき、時間が無くなった米軍は作戦を変更した。2500メートル上空からの夜間無差別絨毯爆撃である。日本の建物にはドイツのように爆弾ではなく、焼夷弾が効果的であった。重さ1.5キロ、長さ50cmで六角形の筒であるM69油脂焼夷弾48発をつめた500ポンド親子爆弾80個を搭載したB−29が編隊で飛来し、次々と投下した。3月9日から10日間で約1500回出撃し、1万トンの爆弾を投下、東京、名古屋、大阪、神戸の市街地を灰にし、多くの民間人の命を奪った。

広島、長崎への原爆投下もB−29だった。無差別攻撃と原爆によりB−29は航空史にその名を残すが、その大きさはYS−11とほぼ同じであった。


※ノルディン爆撃照準機
 長さ 48cm、幅 37cm、高さ 31cm

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