日中和平交渉

1939年(昭和13)、浜口内閣の陸相以来7年ぶりに入閣した宇垣一成は、入閣にあたって「閣内の一致結束を一層強化す、すみやかに対時局の和平方針を決定す。対外外交の一元化を期す、蒋政権を相手にせず云々に深く拘泥せず」
という4項目を提示し、近衛首相の了解を得た。

日中戦争の収拾を最大の課題として登場した宇垣外相は、7月の外相・蔵相・陸相・内相・文相の五相会議において、今後の日中戦争の基本政策として、
「支那事変の直接解決に国力を集中指向し概ね本年中に戦争目的を達成する。」
ために内外の諸施策を展開すること、また、
「第三国の友好的橋渡しは条件次第にて之を受諾する」
ことという方針を決定させた。しかし五相会議が決定した対華政策の基本姿勢は、まずは満州を認めさせ、日本の権益を確保したる後に経済提携を結びぶというものであった。また外国政府と中国が結びつくのをなんとしても避けたかった。。

さしあたって、対英外交方針として、イギリスに援蒋政策を放棄させる目的で、7月26日から宇垣外相とクレーギー駐日英大使との間で在華権益をめぐって交渉が始められた。しかし、外務省の少壮官僚や元駐独大使本多熊太郎など、また拡大派の陸軍の意向を受けた右翼団体によって政府の対英接近を牽制する運動が起こされた。

8月17日の第二回会談で、宇垣外相は、イギリス議会でのチェンバレン首相やハリファックス外相の日本威嚇演説をとりあげ、イギリスに譲歩することはできないと主張した。
クレーギー大使は、今のような状態では、イギリスは日本に対し差別的待遇をとるほかはないと応酬し、会談は急速に冷却していった。

一方、7月5日から21日にかけて、国民党外交部前亞州司長の高崇武と陸軍省軍務局長影差禎昭大佐や参謀本部の支那班長今井武夫中佐との間でも、また、香港では矢田七太郎在華公使らと国民参政会議委員で蒋介石、張羣と密接な関係をもっていた張季鸞の間で和平交渉がすすめられたが、いずれも失敗に終わった。

こうして、日中間になんら歩み寄りもないまま、宇垣外相が9月30日辞任することにより、和平交渉は打ち切られたのである。

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