帝国海軍陸戦隊


本来海軍の任務は洋上にて敵艦隊を海戦でもって撃滅し、制海権を奪取若しくは維持することにある。
しかし、作戦によっては敵の要塞や、軍港の攻撃などで局地的ながらも陸上戦闘を必要とする場合がある。
本来陸上戦闘は陸軍の任務なので、共同作戦という形をとることもあるが、とりあえず海軍の独力をもって占領し、陸軍の到来を待つという事態も生じるようになってくるのだ。

また大東亜戦争においては離島や局地の防衛に海軍陸戦隊が単独で当たったことも珍しくなく、これらの作戦を見ると艦隊作戦の付随作戦と位置づけられる。

ここで海兵に陸上戦闘ができるのかという疑問が出る人もいるだろう。
我が海軍兵士は海兵団入団の初っぱなから陸戦に冠する教育訓練を施され、陸戦に関する概念は将校のみならず一般兵士にとっても常識だったのである。
さらに兵科将校は海軍兵学校及び海軍砲術学校で専門的知識を会得し、砲術科下士官兵もまた海軍砲術学校で専門教育を受けているのである。
陸上勤務においてはもちろんのこと、艦船勤務中であっても機会あるごとに陸戦の訓練を行うという不断の努力が積まれているのである。


日本海軍において、海軍陸戦隊の呼称が用いられたのは明治8年頃からで、それまでの海兵隊に代わったものであった。
海兵隊は英国海軍に範をとったものであり、従って海軍創設時から存在したということになる。
(*:米英の海兵隊は陸海軍からも独立した部隊であるので日本のものとは制度的に大きな違いがある)

事実、佐賀の乱(明治7年)では艦隊が派遣され、海兵隊が編成されてはじめて出動し戦功をたてた。
次いで西南戦争では、海兵隊や陸戦隊は軍艦に乗り込んで各地に行動し、迅速な機動作戦を展開して、陸軍部隊の援護を行い、西郷軍を苦しめた。
これらの戦訓により海軍陸戦隊はいよいよ本格的な戦闘単位として成長することになった。

明治19年、海軍省令をもって「陸戦隊概則」が定められた。
第1条で
「艦隊或いは艦船より上陸し戦闘に従事する銃隊を陸戦銃隊と称し、その砲隊を陸戦砲隊と称す。
而して之を総称するときは陸戦隊と云う。」
と定め、陸戦隊の定義が明文化されたのである。
またこれによって『軍艦●●陸戦隊』というふうに呼称され、これが連合した時は『第●艦隊連合陸戦隊』と称した。
例をあげると、北清事変に際しては海軍軍令部長(当時は軍令部総長ではない)から佐世保鎮守府司令長官に陸戦隊300名の編成を命じて、佐世保海兵団副長が指揮官に命ぜられて1個大隊が編成され、かつ笠置の増加定員として同艦乗り組みを命ぜられた。
つまりこのときは「軍艦笠置陸戦隊」となるのである。

日露戦争においては開戦後間もなく連合艦隊付属陸戦隊が編成され、陸軍の上陸支援にあたったが明治37年6月には海軍陸戦重砲隊が編成され、本格的に戦闘に参加し、旅順攻撃に軍功をたてた。
これは乃木第三軍司令官の要望を受けた統合連合艦隊司令長官が伊東祐亨軍令部長に進言して実現したものである。

また、第一次大戦への参戦に伴う陸軍の山東半島攻撃でも第二艦隊に連合陸戦隊が編成され、重砲隊も加わって、青島攻撃に参加した。
以後、第一遺外艦隊に所属する艦船から陸戦隊が編成され中国各地での居留民保護に任じた。
そして第一次上海事変の勃発により同じく第一遺外艦隊より編成された艦船陸戦隊がさらに増派された。
戦闘開始後は植松少将が上海陸戦隊司令官となったのである。


さて事変後まもなく、「海軍特別陸戦隊令」が制定され、特別陸戦隊は艦船陸戦隊と異なり、地域を定めて設置されるもので、地名を冠した呼称となったのである。
上海陸戦隊はその最初であり、支那事変においては大河内伝七司令の下で活躍した。
ちなみに上海陸戦隊とはいえ、上海以外でも漢口や青島、廈門の占領作戦にも投入されている。

これらの作戦に従事した各特別陸戦隊は艦隊司令長官の指揮下であった。
そして、昭和14年11月には「海軍特別根拠地隊令」が制定されて、侵攻作戦から掃討戦や警備任務に移行した陸戦隊などを編成替えしてこれに当てた。
大東亜戦争中、●●陸戦隊や●●根拠地というようにいくつもあるのはこの編成替えによるものである。

例えば、キスカ島を占領したのは舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊と第二一戦隊(艦船陸戦隊)であり、タラワ基地玉砕の部隊は第三特別根拠地隊であるが、この部隊の元をたどれば佐世保第七特別陸戦隊である。
サイパン島死守部隊の海軍側部隊は第五特別根拠地隊、同じくテニアン防備部隊は第五六警備隊であり、さらには沖縄守備隊にあっては沖縄方面根拠地隊であった。

このように海軍陸戦隊は明治初期から大東亜戦争の最後まで華々しい活躍をしていたのである。

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