ネズミ輸送中の小話

昭和17年の8月に米軍がツラギ・ガダルカナル島(以下ガ島)に上陸し、太平洋戦争の転機となった。

数度の陸軍部隊による攻撃も失敗に終わり、飛行場を完全確保した米軍に制空権を奪われた、日本軍はもはや輸送船でのガ島への物資・兵力輸送は不可能となり、快速の駆逐艦に頼らざるを得なくなった。
この駆逐艦による輸送を米軍は東京急行、現地の駆逐艦の艦長らはネズミ輸送と呼んでいた。なにしろ、敵機を避けるため夜間にコソコソと動くのはまさにネズミであり、駆逐艦本来の戦闘艦の任務を奪われた艦長たちの痛烈な皮肉であった。

そんなネズミ輸送中の小話を少し・・・

昭和17年7月22日、駆逐艦陽炎ほか5隻は、米海兵隊ガ島上陸に際し、パラオで待機中の陸軍一木支隊をガ島に輸送せよとの命令を受けた。駆逐艦連隊長一木清直大佐以下916名の第一梯団を分乗した。
このときの様子を陽炎の高田水雷長はよく覚えていた。一木支隊はほとんど無装備であり、手榴弾と小銃、1個分隊か2個分隊ごとに一挺の軽機があるだけだった。
「装備が多くては行軍の邪魔になる、これで大丈夫」
と陸軍の将校はいきまいていたが、高田水雷長は「これで本当に勝てるのか?」とその言葉がまったく信じられなかったという。

結果は周知の通り、重火器を持たぬ日本軍は圧倒的な米軍の火力の前に敗退したのだった・・・・。


昭和17年11月8日、陸兵や食料弾薬を揚陸し終わり、逆にガ島の傷病兵を陽炎に移乗してるときだった。
傷病兵にやせ衰えた陸軍の中佐参謀が陽炎に乗り込んできた。
自らは1メートル足らずの甲板によじ登るだけの力もないこの参謀が
「早く兵隊を揚げてやれ」
と水兵を叱咤しているではないか。陽炎の士官達はおどろかされた。
そして士官室でおも湯と塩鮭と梅干しを出したとき彼らはもっとおどろかされた。
参謀の食いっぷりは見事の一字で、40度の高熱も何のその、鮭の骨も皮もネコが食べたようにむしゃぶり食い、
「こんなうまいものを食べたことがない」
と大きなため息をついた。

後でこの中佐参謀こそが、陸軍の作戦の神様である辻政信中佐であると知ったのは、基地へ戻ってからであった。


餓島と呼ばれるガ島の惨状は目に余るもので、なぜ海軍が運送屋を続けたのかと言えば、人情というか、人として放ってはおけないからという意味合いもあっただろう。
ラバウル方面軍へのガ島参謀の悲痛な電報はそれを物語っている。
「日々100人平均餓死しあり。その比は高まる一方なり。2個師団の増援の到着までにはたして幾何の生存を保持し得るや、予断を許さず」
これでも実状の何割引のもので、実際は連日のように何百人も餓死もしくは病死している惨状だった。
兵隊は『死亡早見表』なるものを作ったがなんとも悲痛なものである。それはこんなものだった・・・・

立ち上がれるもの────────────→あと30日
起きあがれるもの────────────→あと20日
横になったまま小便をするもの───────→あと3日
口がきけないもの────────────→あと2日
まばたきもできないもの──────────→翌朝

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