ノモンハン事件(概略)

1939年(昭和14)5月、反共主義と帝国主義の立場を露骨に表明した平沼内閣の下で、中国東北(満州)とモンゴルの境にあるノモンハンで、関東軍はソ連軍及びモンゴル人民共和国軍と大規模な軍事衝突をひきおこした。

関東軍参謀の服部卓四郎・辻政信はソ連軍に徹底的な打撃を与え、北方で勝利することは日英会談を好転させると主張して、戦車80台、航空機180機を含む総兵力5万6000を投入して7月1日にソ連軍に総攻撃を開始した。

しかし、近代的装備を持ち数百両の戦車を総動員したソ連軍のために関東軍は終始不利な戦いをつづけ、39年8月29日、外蒙古側の主張する国境線から完全に駆逐されてしまうまでに死傷者1万8000余の損害を受けた。東八百蔵中佐の率いる騎兵連隊の全滅をはじめとして、小松原道太郎中将の率いる第23師団は全兵力の70%近くを失った。

この事件によって陸軍中央部の対ソ危惧感を一層強めることになり、行き詰まっていた三国同盟交渉の妥結をあせらせるきっかけとなった。ノモンハン事変で大敗北をきっした陸軍は大きな衝撃を受け、軍の機械化、装備や火力、輸送力強化の必要性を痛感した。

関東軍の独走という形ではじまったノモンハン事件はこうして日本側の完敗に終わった。この戦闘は、関東軍にとっての唯一の本格的戦闘であったばかりでなく、日本軍にとって近代的装備をほどこした軍隊との最初の戦闘であったと言われている。

事件後、植田謙吉関東軍司令官はその責任を問われて辞職した。また、この事件の実質的責任者である関東軍の作戦参謀の多くは転勤を命ぜられたが、その後いつのまにか中央の要職に復職し、対米開戦の主張者となっていた。

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