戦艦大和の電気冷蔵庫

昭和20年4月7日、午後2時23分、世界最大最強を誇った大和は米軍機延べ1000前後の波状攻撃を受け、前部と後部の砲塔で誘爆を起こし、鹿児島県徳之島沖で沈没した。 大和は沖縄海岸に乗り上げ砲台と化して戦うという菊水作戦のため出撃した。
海軍の食事、なかでも大和の食事はうまかったと元乗組員は皆口を揃えて言う。
大本営派遣参謀辻政信中佐は昭和17年にトラック島(南洋における日本海軍の重要拠点)に停泊中の大和を訪れ、山本五十六連合艦隊司令長官に面会した。会見後、山本長官は辻参謀に食事を出すよう指示した。
食事は
 『黒塗りのお膳に尻尾のピンと跳ね上がった鯛の塩焼き、鯛の刺身・・・それに冷え切ったビール』
であった。
辻参謀はこの食事にいたく感激し、大和ホテルと呼び、この噂が広がり以後軍艦武蔵が「体育学校」と呼ばれたのに対し、軍艦大和は「大和ホテル」と呼ばれるようになった。
もっともこれはいつまでもトラック泊地にとどまって戦場に出ないのを将兵が揶揄したものでもある。

兵の食事もよく、物資が急速に欠乏し始めた昭和20年に入っても「こんなにうまいものを食べていいのか」と思いながら「ピリピリするほど辛いカレーライスと、バナナやリンゴ、マカロニが入った野菜サラダがうまかった」と回想する元乗組員もいる。

大和の食事がうまかったのは、艦長専用烹炊室、准士官以上烹炊室には電気冷蔵庫があったし、下士官・兵員のためには、食料保存用の大型冷凍冷蔵庫があったからだ。冷凍冷蔵庫、肉・野菜・生野菜庫とそれぞれ分けられていた。
大和の食料用冷凍冷蔵庫の動力源は8万キロカロリー(26冷凍トン)、50馬力のターボ式冷凍機4台の一部である。食料用冷蔵庫のターボ式冷凍機は日立製だったという証言もある。

軍艦に冷凍機が必要なのは、弾薬の性能維持と誘爆を防ぐためだ。弾薬の性能は摂氏20度に保たれると一番性能がいい。弾薬庫はふつう艦を動かす機関のすぐそばにあり、、室内温度がすぐに上昇し、自然誘爆を起こしやすいからだ。冷凍機は准士官以上の居室の冷房にも利用された。

大和は当時の最新鋭艦で、主砲の46センチ砲は最大射程41,5キロメートルであった。標的までの距離を計測する15メートル測距儀、さらに標的の速力、針路、砲が持つ固有の弾道、さらに風向、風速など様々なデータを入力し計算し、その結果を砲側に指示する砲戦指揮装置を搭載していた。指揮装置は光学的計算機構を用いた。光コンピューターの元祖とも言われる。測距儀、砲戦指揮装置ともに日本光学(ニコン)製だ。

沈没の日は昼食前から戦闘態勢に入り、戦闘配食の2個の握り飯を食べた兵士、食べられなかった兵士がいた。
夕食には赤飯の缶詰と牛肉の大和煮の缶詰、夜食にぜんざいが予定されていた。 

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