海上護衛戦


はじめに

日本のような海洋国家にとって海上交通路の維持こそが国家の命運を左右するといっても過言ではない。多くの資源を輸入に頼らねばならないからである。

しかし、日本海軍は潜水艦の脅威に対し開戦以前はほとんど無関心であった。
理由としては次があげられる。
@対米戦と英蘭戦を同時に行うことを考えていなかった。
A艦隊決戦を重視するあまり、兵力を対潜戦にまわせなかったこと。
BAのおまけとして首脳部の関心が薄いため、対潜にかける予算も装備も満足に融通できなかったこと。
C「アメリカ人は潜水艦乗組員に必要な忍耐力に欠ける」という都合のいい解釈をもしていたこと。
そんなわけで海上護衛兵力もお粗末なもので、ほとんど無いに等しいものだった。

開戦時の対潜作戦兵力(艦)


旧式駆逐艦(2,3等駆逐艦)  16隻
海防艦                4隻
その他(哨戒艇、駆潜艇等)   35隻
さすがにこのままでは・・・ということから、開戦直前の1941年11月に海防艦30隻の建造が決定された状態である。


開戦〜第一段作戦終了まで

米海軍は開戦と同時に無制限潜水艦戦を始めた。
有力な水上戦力を擁する日本海軍に対し正面からの戦闘は避けざるを得ないのもあるからだ。


しかし怒濤の日本軍の進出に基地を奪われ、特に潜水艦部隊にとっても重要拠点のフィリピンが早々に陥落してしまい、同基地に蓄積された潜水艦用魚雷も日本軍機の爆撃で失い、慢性的な魚雷不足に悩まされた。
おまけにこの当時の米軍魚雷は性能が劣悪で不発魚雷が多かった。


これら幸運にも助けられて、日本軍船舶の損失率は日本海軍が予測したものよりもずっと少なかった。
これが日本海軍を油断させる一因になることは言うまでもない。

1943年〜

攻勢終末点を越え、日本軍の補給線は伸びきってしまい、元々貧弱な対潜部隊はどうにもならなくなってしまった。

逆に米軍は新型潜水艦の配備、優秀な磁気魚雷・レーダーを装備し始めた。
この頃就役したガトー級潜水艦は特に目立った性能もない反面、際だった短所もない誠に使い勝手が良く、潜水艦乗組員に親しまれ、計200余隻が建造された。
さらに
ウルフパック戦術(※)を取り入れ、ガ島攻防戦から日本船舶の損失は鰻登りしていく。
※ウルフパック戦術
平たく言えば潜水艦の連帯行動。常に数隻で行動し、攻撃力を高めようとしたもの。ドイツが編み出したもので、これにフォッケウルフFw200哨戒機を組み合わせ連合軍船舶を次々と沈めていった。

現代では1艦あたりの戦闘力が飛躍的に上昇したので、作戦行動は1艦単位で行われる。

日本海軍は護送船団方式を採用して、急造海防艦も戦列に加わったが、それでも数が全然少なく、またその護衛部隊の運営もお粗末であった。

大西洋では船団の規模を大きくすることが、損失を押さえ、また、護衛兵力の効率使用につながると知られていたが、日本海軍は通信機器の貧弱さなどのため、大船団を組むことができず、一層被害が増加してしまった。

1944年〜

日本軍の制海権はもはや日本海等近海にしか及ばなくなり、ますます米潜水艦の跳梁跋扈を許すことになる。

日本海軍の対潜能力は貧弱で、専ら聴音機(パッシブソナー)に頼り、連合軍が使用したアクティブソナー(探信儀)を持たないので、潜水艦を捕らえること容易ではなかった。
対潜兵器も爆雷のみで米軍が使用した
ヘッジホッグ(※)の類は無く、闇雲に爆雷投下して逃がしている。
結果潜水艦の返り討ちにあった駆逐艦は43隻に及んだ。
※ヘッジホッグ
いわゆる対潜ロケット弾の元祖。当然爆雷よりも沈下速度が速く、また爆雷のようにいちいち発射の際に敵潜の頭上を通過する必要もなく、好きな方向に発射でき、射程も散布界も大きかった。現在の護衛艦にも搭載されている。


3月には客船ベースの改装護衛空母4隻が対潜用に投入されたが、艦載機がレーダーを持たないため夜間には何の役にも立たず、4ヶ月経ってみると3隻が夜間に雷撃され沈没という窮地に立たされた。

そこで現状打破の為、航空機による対潜哨戒部隊が編成された。
この部隊の航空機には終戦まで日本軍のみが実用化に成功した兵器の一つ、磁気探知機を装備していた。
この磁気探知機は非常に優秀で戦後米軍がその性能に驚いた程であった。
レーダーも装備され、関係者の期待を大いに背負っていたが、台湾沖航空戦等ですりつぶされてしまい戦果を上げることは出来なかった。



8月、台湾からシンガポールに向け重要船団『ヒ-71』は有力な護衛と共に出港した。
その艦隊編成は

 護衛空母「大鷹」、駆逐艦3、海防艦9、輸送船16

というかなりの護衛がついていたのがわかる。しかし米潜水艦隊に執拗に狙われ結果は

 輸送船7隻被雷4隻沈没、護衛空母「大鷹」沈没、海防艦3隻沈没

に対し、米潜の損失は1隻足らずだった。

1945年〜

日本側が海上交通路を次々と失っていく一方、米軍は潜水艦だけでなく航空機による船団攻撃をも活発化させてきた。

 1月、船団『ヒ−86』10隻練習巡洋艦2隻海防艦5隻の護衛のもと、印度支那沖を航行中、米空母艦載機150機の攻撃を受け、輸送船団全滅巡洋艦1隻海防艦2隻も沈没してしまった。

こうして日本は3月には南方資源地帯と分断され、燃料・資材の不足が深刻になっていった。
それでも日本海を通じて中国・朝鮮間の船舶輸送は続いていたが、それもB-29による機雷での海峡封鎖でほとんど身動きがとれなくなった。

さらに、1945年6月、9隻の米潜は対馬海峡の機雷原を突破し、日本海に侵入、「バーニー作戦」を展開し3週間の間に、28隻の船舶と潜水艦1隻を撃沈し、悠々と宗谷海峡から去っていった。この作戦による米潜の被害は1隻のみだった。

おわりに

大平洋戦争中に沈没した日本船舶は約2400隻にのぼる。その乗員約13,000人が命を落とし、陸軍兵も10万人以上が輸送船もろとも海の藻屑となってしまった。
また、輸送船直援の海防艦は戦時中に168隻が就役したが、40隻が潜水艦に、31隻が航空機に撃沈されている。
これに対し、米軍の第二次大戦中の潜水艦損失は52隻であった。

最初に述べたように周りを海に囲まれた日本は海上交通路の、つまりはシーレーンの維持に力をいれなければならない。
連合艦隊は世界第三位の海軍力を誇りながら、海上護衛兵力はなきにしもあらずであった。
イギリス海軍を見本としたのに、第一次大戦でUボートと戦った海上護衛戦術について何も学ばなかったのはどういうことだろうか。地理学的にも似ているイギリスはとても参考になったろうに・・・。

主力艦決戦に執着する余り、最重要たる資源の確保、この戦争の目的でもある南方資源地帯との結びつきを自ら狭めてしまったのは残念である。いくら資源の産地を押さえても日本に持ち込めなければ意味がないことを忘れている。

 そして、日本側の潜水艦用兵もあまりにもまずかった。艦隊決戦の補助兵器と考えていたからだ。

              「潜水艦の最も有効な活用法は通商破壊戦である」

とドイツ海軍の忠告を再三受けていたが、日本は一部を除き、最後まで艦隊決戦思想を止めなかった。
潜水艦艦長らも事ある毎に艦隊決戦には不向きであると主張していた。


その典型例としてマリアナ沖海戦で高木中将指揮下の潜水艦20隻を米艦隊に差し向けたが19隻を撃沈されてしまった。

日本潜水艦は艦隊決戦で敵艦隊を発見・追跡攻撃を繰り返すため水上速力を上げてある。
そのため、艦の大型化や騒音など潜水艦にとって致命的とも言える欠点を持つことになった。


それに艦隊の速度は向上し、とてもじゃないが鈍足の潜水艦が反復攻撃をかけられるような状況ではなくなっていた。
日本潜水艦もそれなりの戦果は挙げてはいるが反復攻撃によるものではない、全て待ち伏せによるものであった。
やはり潜水艦は交通路で待ち伏せて、輸送船を狙うのが最も効率の良い作戦であるといえる。うまくいけば敵艦隊をも補足できるかもしれない一石二鳥である。

また、日本の対潜能力の低さはひとえに科学力の差とも言える。
欧州戦線では英独が激しい電波戦を行ってたのにさいし、日本は無線電話さえ満足に使えないという有様であったのだから。



現代の海上自衛隊の保有する護衛艦はシーレーンの確保を主目的としている。
そのため護衛艦は対空・対潜を重視しているのが特徴だ。
備砲は仰角の大きい対空対地兼用の速射砲を、短魚雷発射管(アスロック)・対潜ロケット・ヘッジホッグ等装備を充実させている。
対艦装備はミサイルしか無いようなものだがそっちは潜水艦と航空機に任せる他ないだろう。


言っておくけど、現代の潜水艦は強い。
単独で行動し、哨戒・攻撃を担う。駆逐艦に一方的にやられた時代とは違う。
昔のように潜望鏡深度で魚雷発射する必要はなく、水中速力も原潜なら30ノット以上、日本の通常動力型潜でも20ノットだせる。
これに加えて優秀な頭脳を持つ艦長を頂けばまさに無敵の艦である。


ともかくも海上自衛隊の戦略は間違っていない。後はその目的を達成するための艦の性能・数にかかってる。


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