北一輝とその思想


よく右翼思想家の代名詞のように聞かれることがある北一輝だが、その思想の変遷は特異な面を見せている。
ここではその思想面に的を絞り簡単に紹介していきます。


1.会主義者 北輝次郎

北輝次郎(本名)は明治16年4月3日に佐渡の湊町の旧家の長男として生まれた。
18歳の時、県立佐渡中学を中退した。すでにこの頃から「明星」や「佐渡新聞」等に論文を投稿し佐渡では若手論客としてその名をしらしめていた。この時代に書いた論文の中の

『鉄幹と晶子』
『日本国の将来と日露の開戦』
『咄、非開戦を云う者』
『社会主義の啓蒙運動』
『革命の歌』

は北を知る上で重要な論文である。

「革命の歌」は佐渡の中学生に向けて作られたものだったが、その一節はこんな詩である。

友よ、革命の名に戦慄(おのの)くか
そは女童のことなり
良心の上に何者をも頂かず
資本家も地主も
ツァールもカイゼルも
而して・・・・
霊下一閃、胸より胸に
罪悪の世は覆へる
地震のごと
大丈夫斯くてこの世に生きる

これは日露戦争後の作であるのに注目したい。
また、「咄、非開戦を云う者」で重大な主張をしている。

「吾人は社会主義を主張するが為に帝国主義を捨つる能わず」
と断言しており、これこそ北の生涯を貫く思想の基本であった。



2.「国体論」の発禁処分

さて、明治38年に上京した彼は独学で『国体論および純正社会主義』という本を書き上げて翌年5月に自費出版する。
が、この本は発売5日にして発禁処分となる。

1000ページにもわたる大著であるこの「国体論」であるが、なぜ発禁となったのであろうか。
それは、明治憲法で確立された天皇制国家の持つ矛盾性と危険を鋭く指摘し批判したが故である。その批判があまりにも正当なものだったために発禁となり、以後(特高)警察に要注意人物とされたのだ。

北の指摘した矛盾とはこういうことである。

「天皇が現人神として無謬の神として国民道徳の最高規範として君臨することと同時に天皇は元首として過ちと失敗を繰り返さざるを得ない政治権力の最高責任者に暗いするものと定めた明治憲法の二元性」。


「国体論」の出版→発禁により北の存在が社会主義者に知られるようになった。
幸徳秋水や堺利彦らとの交友がこうして始まり、革命評論社同人となる。
またその頃日本には中国革命を決行せんとする革命党員が多数亡命してきていて、これらの人は中国革命同盟会という革命党を結成していた。北はこれに入党し特に、宋教仁と親睦を深めた。
同時に内田良平を中心とする大陸浪人とも結び、黒龍会の「時事月函」の編集員となる。

もちろん、当局から社会主義者として刑事の尾行・監視下におかれていたのは言うまでもない。
1910年(明治43)の大逆事件では辛くも釈放されたが、これは明治天皇の特赦による逮捕者削減の処置によりなんとか助かったらしい。



3.中国革命北一輝

1911年10月に中国は武昌で革命が起こる。世に言う辛亥革命である。
北は宋教仁からの招請電報を受けて黒龍会特派員として上海に渡った。この間、武昌−南京の間を往復し、弾丸の下革命軍と行動を共にした。この時の経験は後の『日本改造法案大綱』(最初は「国家改造案原理大綱」)に生かされる。
1913年、革命軍の宋教仁が暗殺され、北自身も上海駐在日本総領事から三年間中国国外退去をこの4月に命じられ帰国することとなった。

帰国後、1915〜16年にかけて辛亥革命の体験をもとに『支那革命外史』を執筆し、これをキッカケとして大川周名・満川亀太郎が北を知ることとなる。ついでに名前を輝次郎から「一輝」と称するようになったのはこの頃からである。


1917年6月には再び上海に渡り、1919年8月、五四運動に在りながら断食(約)40日間を経て『日本改造法案大綱』を完成させる。
また、この大著の執筆中に大川周名が上海に現れ
「中国の革命より日本の革命が先だ」
と帰国を促し、北は作品を書き上げた後同年12月31日に帰国、翌年1月4日に猶存社に入った。

この日から二二六事件で逮捕→刑死するまでずっと浪人生活となる。
この浪人生活の間に北が関与した主な事件は

1925年 安田共済保険ストライキ事件
 〃    朴烈・文子怪写真事件
1926年 十五銀行恐喝事件
1930年 ロンドン海軍軍縮会議における統帥権干犯問題

ほかにもロシア革命政府が派遣したヨッフェの入国を弾劾する怪文書を作成したり、昭和7年に外交国策の建白書を草したり陰に陽に活動をしていた。


4.北一輝の革命構想

中国革命に参加して近代化されない国家の革命戦争を体験した北は、自らの日本の革命方式に先に国体論で指摘した天皇制の矛盾を逆手に取る発送を見いだした。
それが法案巻一の
「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散して全国に戒厳令を布く」にある。
つまり、天皇の二元性のうち神としての天皇を憲法を越えた存在として同時に戒厳令施行により政治権力を一定期間凍結・停止する根拠を与え、この政治権力の空白期を狙って革命を行うというまさに日本独自の革命方式を北は考えたのである。

また法案の基本原則として「国家の権利」と題し
一国内の階級闘争を是認するならば、地球上の階級闘争も認めよ
という開戦の権利の主張をしているのも要チェックである。


そして革命を遂行する主体は、唯一の武器の所有者である軍隊である。
「支那革命外史」、「日本改造法案大綱」でも述べているように、軍隊の上層部は必ず時の政治権力に密着して腐敗しているから下級士官が下士官・兵、いわゆる兵卒を握って主体とならなければならないと主張した。

もうお気づきのことと思うが、この思想が実現したのが二二六事件なのである。
下級士官たる青年将校が兵卒を連れだし、錦旗革命を行おうとしたのである。このときの青年将校の後ろ盾は何も皇道派だけではない。実際に北一輝、西田税と電話で最善策を協議したり、教えを請いだりしている。NHKのドキュメンタリーだかのビデオに肉声が収録されているので間違いはなかろう。

日本の軍隊は建軍の本義として神としての天皇の命令を基礎に置いている、故に純粋に天皇を神と信じる下級士官以下の兵こそ世界に類のない革命軍に転化するであろうと北は期待したのだった。

上層部の軍人や陸軍省・参謀本部に勤務する軍官僚は我が国の内閣制度では、元首としての天皇に奉仕する政治的軍人にならざるを得ないという北の主張はよく的を射ている。
だからこそ政治権力者(軍上層部含む)にとっては北の存在と思想は、他の社会主義者や右翼に見られないある種の不気味さを感じさせ、畏怖させるに十分であった。
これは二二六事件で北一輝は利敵行為ということでせいぜい懲役ぐらいの罪しかおかしてないのに死刑にされた原因の一つであると言えなくもないだろう。


しかし北がいかに斬新な革命論をひねり出しても現実の日本は、この北の思想を実現するにはほど遠かった。北自身もこれをよく熟知し、日々「法華経」を読誦するうちに世間との直接の交流を絶ち、退役少尉西田税を陸軍の下級士官とのパイプとし、影響力を残しつつ「地涌の菩薩」出現の日をひたすら待ち続けた。「地涌の菩薩」出現の日というのはいわゆる「革命決行の日」のことである。

二二六の尋問で北は
「ただ、私は日本か結局改造法案の根本原則を実現するに至るものであることを確信していかなる失望落胆の時も、この確信を持って今日まで生きて来たり居りました」
と答えている。


右翼の間で「魔王」と恐れられ、革命大帝国実現を主張した北の思想は、一国内の権力者、富豪を倒して貧しき者が平等を求める革命と、後進国が先進資本主義国と戦争を冒しても領土と資源の平等分配を求める権利の主張は同じだという、社会主義者にして帝国主義者という一風変わった思想家であった。

彼自身言うように、北一輝は一貫不惑のナショナリスト、革命家であった。      


(注)「国体論」などの引用部分はすべて現代かな使いに修正いたしました。


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