天皇機関説事件の概略


■目次■
 1.事件の前触れ
 2.天皇主権説vs天皇機関説
 3.天皇機関説問題勃発
 4.司法処分と国体明徴声明
 5.思想統制の強化

1.事件の前触れ

軍国化が推し進められる最中の昭和7年(1932)、司法官赤化事件なるものが起こり、各右翼団体はこの事件の原因は東京大学の美濃部達吉・牧野英一・末広厳太郎、京都大学の滝川幸辰らの法学思想にあるとして、これらの自由主義的学者を「学匪」・「赤化教授」と激しく攻撃した。
余談だが法学を学ぶ自分が今のところ知ってるのは美濃部と末広だけだったりする。
美濃部博士は題名にもある天皇機関説で知ってて、末広博士は賃貸借だかの「権利不可侵性の理論」を広めたというのを民法の債権法でやった覚えがあるぐらい。
この教授らの人格・思想等は全然知りません。
以上、何の関係もない雑談でした。
折から滝川教授は中央大学法学会で「『復活』に現れたるトルストイの刑罰思想」と題する講演を行い、非難を浴びていた時期である。
彼の主張の要旨は、
「社会が犯人に対し復讐的態度をもって望むに先立ち、犯罪の原因を十分に検討しなければならない。同情と理解は報復に勝る」
というもので、右翼や政府部内からもこれは国家が刑罰を加えるのを不当とする学説で、ひいては国家否認につながるものであり、非難されたわけである。

昭和8年はじめの第64会議会で衆貴両院はこの問題を取り上げ、教育革新と思想対策の決議、時局に関する決議を行い思想取り締まりの強化を政府に要求した。
この議会での追求を受けて、内務省は滝川教授の「刑法読本」「刑法精義」を発禁処分とし、ついで鳩山一郎文部大臣は滝川博士の辞職を小西総長に要求した。

歴史教科書にものっている滝川事件である。
文相の要求に対し京大法学部教授会は、文部当局のこの措置は大学の自治を踏みにじり、学問の自由を脅かすものだと反対したが、政府は文官高等分限令委員会を開いて滝川の休職処分を決定した。
この政府の一方的措置に対し、京大法学部教授会全員は辞表を提出し、抗議の意思表示を行い、法学部学生もこれに呼応する形で抗議運動を行った。

運動は京大から全国の大学に広がっていく盛り上がりを見せたが、小西総長は文部省の圧力に屈して当局の措置を承認するとともに辞職した。後任の松井総長は文部当局との協議の結果、佐々木惣一・宮本英雄・末川博・恒藤恭・森口繁治の5教授だけの辞表を受理し免官を発令、残った教授は慰留された。

この京大滝川事件は大学の自治と学問の自由をめぐっての国家vs大学の最大の戦いであったと同時に、この後の右翼・軍部・保守勢力の赤化の危機に対する厳しい処断の始まりであったと言える。


2.天皇主権説vs天皇機関説

昭和10年1月、第67回議会の貴族院本会議で、前年3月に東京帝大教授を退官して名誉教授となっていた美濃部達吉(昭和8年貴族院議員に勅撰)が、帝人事件の取り調べで人権蹂躙行為があったことを指摘し、検察当局が違法に権力を乱用した恐れが強いと、帝国憲法の条項を引用して鋭く追及した。

これに対し、右翼の蓑田胸喜を中心とする国体用語連合会は「美濃部達吉博士、末広厳太郎博士等の国憲紊乱思想について」と題した文相を配布して美濃部に対する攻撃を開始した。


さて、憲法学者美濃部達吉は明治末以来、当時の通説であった穂積八束(ほずみやっか)・上杉慎吉らの天皇主権説に対して天皇機関説を唱え、明治45年から13年にかけて両者の学説は激しい論争となったのである。

天皇機関説は、イェリネックの国家法人説を日本に適用したもの・・と大まかには言うことが出来る。
大日本帝国憲法第四条「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」の解釈について、天皇が国家統治の主体であること(=天皇主権)を否定し、統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関として統治権を行使するという学説であった。
つまり、国家の統治権が天皇のみに属することを否定して、政党内閣制の理論的基礎を築き、また天皇の行使する統治権が無制限のものではなく、憲法によって制限されているものであることを強調したのだった。

天皇主権説が国体をたてに国家機構内部における軍ないしは官僚的要素の絶対的地位を確保しようとするのに美濃部は強く反対した。
彼は国体や統帥権をふりかざして政府や軍の決定を押しつけることに反対するとともに、国勢に対する批判の自由や行政権・司法権も法律にもとづく法治主義でやるべきと要求していた。

この天皇機関説は大正デモクラシー運動以後、明治憲法下の議会政治を基礎づける憲法理論として学会の主流をなす学説となっていったのである。
というのも、美濃部の著書である「憲法講話」や「憲法撮要」などは多くの学生の教科書になっていただけでなく、美濃部自身が高等文官試験委員に任ぜられていたことからも、官界での正当派憲法解釈論として承認されていたと言えようか。



3.天皇機関説問題勃発

美濃部の天皇機関説は軍部によりまず排撃されはじめた。
昭和10年2月の貴族院本会議で菊池武夫(陸軍中将・男爵)をはじめ井上清純(海軍大佐・男爵)・三室戸敬光(子爵)らは、憲法上統治の主体が天皇になくて国家にあると公言することは
「緩慢なる謀反であり、明らかなる反逆になる」
として美濃部を「学匪」であると非難した。

美濃部はこれら排斥運動にたちむかい、「一身上の弁明」を行った。
「国家の有する統治権を最高機関たる天皇が総攬し憲法の条規によって之を行う」という国家法人説の理論的正当性の根拠を蕩々と述べた。この弁明は新聞紙上でも大きくとりあげられ、国内問題へと発展していった。
またこれら新聞報道にもっとも刺激されたのが右翼団体であり
「自由主義勢力が...(中略)..従来の地盤たる知識階級の圏外にも氾濫して国民思想の分野に圧倒的な支持を獲得するか、それとも国民大衆の意識化に伏在する伝統的国民感情が自由主義の反撃攻勢を押し返して、これに最終的打撃を与えるかの国民思想上重大な転機である」
(「天皇機関説総批判」”維新”昭和10年4月号に掲載)
とし、天皇機関説との決戦を呼びかけた。

さて、このような情勢の中、京大滝川事件の時のような学問の自由を護ろうという組織的な動きはもはや見られなかった。
美濃部は孤立無援の戦いを続けざるをえなかったのだ。
2月末、江藤源九郎代議士は美濃部を不敬罪で告発し、3月はじめには機関説排撃の一大国民運動を展開するため、黒龍会の提唱で西田税・頭山満らによって結成された。
その目的は言うまでもなく機関説撲滅同盟が結成され、天皇機関説の発禁と美濃部の自決させることにあった。
これに便乗するように議会でも貴衆両院の有志議員が排撃を申し合わせた。


政治面では絶対多数を擁しながら岡田内閣に閣僚を送っていない政友会としては、よくあるパターンでこの事件を倒閣運動に利用しようと考え、コトあるごとに機関説問題をとりあげた。
首相をはじめ政府は、
「美濃部博士の著書の全体を通読すれば国体の観念に置いて誤りはないと信ずる、学説においては学者にゆだねるほか仕方ない。」
と答弁していたが、野党政友会の攻撃の前に遂には
「機関説には反対でその処置を慎重に考慮する」
と述べるようになった。

「国体」という大日本帝国の根幹をなす錦の御旗をふりかざした一部議員に、政府もこの問題に消極的だった議員もずるずると引きずり込まれていった。議会は審議の場としての機能を果たせなくなっていた。
3月20日貴族院で「国体の本義を明徴にする」ことを求める政教刷新建議を可決した。
23日には衆議院が
「政府は崇高無比なる国体と相容れざる言説に対し、直ちに断固たる措置をとるべし」
との国体明徴決議を可決した。

この決議案の提案説明にたったのが鈴木喜三郎政友会総裁で、当時はその政治手腕から「腕の喜三郎」と異名をとっていた。
しかし政治評論家阿部真之助は彼をして
「一般民衆は...(中略)...かれの忠誠の志に驚嘆する前に、かような問題をすら政略の具に供するを辞せざる卑劣な根性に愛想を尽かしていたのである」
と痛烈に批判した。

排撃運動に立ち向かう者はもはや皆無に等しく河合栄治郎東大経済学部教授が正面から反論したがこれなどは例外的なものであった。
「国体に関する議論と処置とは、特に慎重となることを必要とする。
しかるに国法の許さざる...の脅威をもって博士の口を箝し、世人をして生命と地位とを賭するにあらざればこれに関する一言も吐くことを許さざる情勢に至らしめることは『国権を重んじ国法に遵え』と宣わせられたる明治天皇の教育勅語に...反するであろう」


さて、当の天皇陛下はどうお考えであったのか、触れておかねばなるまい・・・。
昭和天皇陛下は天皇機関説容認であり、一連の排撃運動をやりすぎであると憂慮あそばされていたのである。
当時、侍従武官長であった本庄繁陸軍大将の「本庄日記・至秘鈔」によれば、
「軍部にて機関説を排撃しつつ、しかもかくの如き自分の意志に悖る事を勝手に為すは、即ち朕を機関説扱と為すものにあらざるなきや」

と排斥運動を批判されている。

4.司法処分と国体明徴声明

議会が終わると、政府としては早急に一応の措置をよって美濃部問題のをつけようとした。三月二十九日の定例閣議では陸海両相は徹底的な排撃措置を首相に要求し、問題の処置に苦慮した政府では、美濃部に自発的に著書を絶版にし、貴族院議員を辞職させることで問題を解決しようとはかったが成功しなかった。

四月七日、美濃部博士は検事局に召喚されて十六時間にわたる取り調べをうけた。
その二日後に内務省は司法検事局の取り調べを参考にしたうえで、『逐条憲法精義』『憲法撮要』『日本憲法の基本主義』の三著者の発禁、『現代憲政評論』『議会政治の検討』の二著書の次版改訂を命じた。
そしてその日、文相はいわゆる国体明徴の訓令を発し、全国の各校長にたいして、
「国体の主義に疑惑を生ぜしむるが如き言説は厳にこれを戒める」
よう命じた。

しかし、軍部はこれだけでは納得しなかった。
天皇の軍隊であると自認する軍部は天皇機関説が軍隊教育に悪影響を及ぼす恐れがあるとし、徹底排除を要求したのである。
折しもこの当時、陸軍中枢を占めていたのは皇道派であり、このような学説を到底容認できるはずもなかった。

4月6日、教育総監真崎甚三郎大将は機関説の排撃と国体明徴の訓辞を陸軍全体に通達した。
13日には南次郎関東軍司令官から同様の訓辞が、15日には帝国在郷軍人会本部から陸軍省軍事調査部長山下奉文の名による機関説排撃のパンフレット『大日本帝国憲法の解釈に関する見解』15万部が全国に配布され世論を煽り立てた。
これに呼応して、各地の在郷軍人会支部では機関説排撃大会を開いた。


このように機関説排撃運動は4月から7月にかけて全国的な運動に展開した。
4月17日には、機関説排撃運動を「昭和維新」断行の契機とする政教刷新連盟が結成されたし、また6月1日には国体擁護連合会と貴衆両院の中の機関説排撃派議員が集まって、国体明徴達成連盟が結成された。
機関説排撃運動は右翼・政友会・軍部急進派(皇道派)等による倒閣運動にいつのまにか転化し、また平沼騏一朗一派の企図する一木喜徳郎枢密院議長の排撃にも利用された。


これに対して岡田内閣では一木らを辞職させずに事態を収拾するため、美濃部に公職を辞退させることでウヤムヤの内に葬ろうと画策したが、美濃部は頑として応じようとしなかった。
彼は手紙の中で次のような決意を述べていた。

「小生公職辞退の儀につきなお熟考を重ねし結果、今日において小生自ら公職を辞することは、自ら自己の罪を認めて過誤を天下に陳謝するの意義を表白致すものに他ならぬことは申すまでもなく、自ら、学問的生命を放棄し、醜名を死後に残すものにて、小生の耐え難き苦痛と致すところにこれあり候。
顧みればこの数年来憲政破壊の風潮ますます盛んと相成り、甚だしきは自由主義思想の絶滅を叫ぶ声すら高く、...小生微力にしてもとよりこの風潮に対抗してこれを逆襲するだけの力あるものにこれなく候え共、憲法の研究を一生の仕事と致す一人として、空しくこの風潮に屈服し退いて一身の身の安きを貪りては、その本分に反するものと革新致しおり候」


8月3日、政府は「国体明徴に関する声明」を発表し、その中で
「大日本帝国統治の大権は厳として天皇に存すること明らかなり。
もしそれ統治権が天皇に存せずして、天皇はこれを行使するための機関なりと為すが如きは、これ全く万邦無比なる国体の本義を愆(あやま)るものなり」
と断じた。

この間の7月、天皇機関設問題で積極的役割を果たした陸軍教育総監真崎甚三郎が林陸相と対立して更迭された。
この事件を契機に皇道派と統制派の対立が進んだのだが、皇道派の青年将校は、真崎の更迭は永田鉄山が重心と企んだ陰謀で「統帥権干犯である」とし、永田事件の伏線となったのである。


さて、検察当局は9月に入ってから美濃部を再び取り調べ、18日に起訴猶予と決定した。
機関説は出版法にいう「安寧秩序を妨害」する罪に、また詔勅批判の可能性を説く点は、同法でいう「皇室の尊厳を冒涜」する罪にあたる疑いがあるが、情状を酌量して起訴猶予にしたというものである。

翌日美濃部は貴族院議員を辞した。
そして
「私の学説をひるがえすとか自己の著書の間違っていたことを認めたとか言う問題ではない...」
との初審を新聞紙上の声明で明らかにした。

この美濃部の声明に、各地の罪業軍人や右翼団体を激昂させ、陸海軍大臣も国体明徴の徹底を首相にせまった。
10月15日、政府は国体明徴に関する声明を再び行うことを余儀なくされた。
声明の内容はだいたい同じだが、今回の声明では天皇機関説を芟除することを明らかにした。

5.思想統制の強化

京大滝川事件と天皇機関説事件は思想統制にさらなる拍車をかける結果となった。
昭和8年4月、内閣に思想対策協議委員会が設けられ、建国精神の確立、教育制度の改革、政治に対する国民の信頼回復などの対策を協議した。
そして「不穏思想」の鎮圧策として、治安維持法を改正し同法の適用範囲を拡大し、刑罰規定を強化する方針をうち立てた。
この治安維持法の改正(よく改悪と言われる)方針は昭和9年2月に「治安維持法改正案」として第六五議会に提出され、両院で修正のうえ可決されたが、両院協議会で意見が一致せず、審議未了に終わった。

また思想犯保護観察制は昭和11年に法律として制定され、それまでの政体変壊・国権紊乱・風俗壊乱に加え、新たに皇室の尊厳冒涜と安寧秩序の妨害とが行政処分や処罰の対象とされ、これが天皇機関説でモノを言った。

天皇機関説問題を契機として、「国体観念、日本精神を根本として学問、教育刷新の方途を講じる」為、の教学刷新評議会が設置され、また文部省からは「国体の本義」が配布された。

こうした矢継ぎ早の措置によって、一層の国民思想と統一がなされていった。


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