摂政宮狙撃事件「虎ノ門事件」の概略



日本列島に衝撃が走った。
大正12年(1923)の暮れ、12月27日に一人の共産主義アナーキスト青年により摂政宮が狙撃されるという重大な事件が起こったのだ。

当時、大正天皇陛下はご病身であったために裕仁皇太子殿下が執政となっていて、この日は帝国議会の開院式に出席するため自動車で移動中だった。ご承知のように裕仁殿下は後の昭和天皇陛下となるお方である。
車が虎ノ門にさしかかったところで、群衆の中から一人の青年が飛び出して、ステッキに仕込んだ銃で発砲。
幸いにも銃弾は車の窓ガラスを破損するに止まった。
さらに青年は車を追って走り
「革命万歳!」
と連呼していたところを警戒中の警官・憲兵に取り押さえられた。

取り調べの結果、この青年は山口県選出の代議士難波作之進の次男の大助で、事件の3ヶ月前に起こった大杉事件などを憤って、摂政宮暗殺を企てたことが判明した。


この事件のため、山本権兵衛内閣は責任を負って総辞職し、警視総監湯浅倉平、警務部長の正力松太郎などが懲戒免官、さらには大助が上京の途中、京都に立ち寄ったというだけで京都府知事まで譴責処分を受けた。
教育勅語を奉読し間違えただけで自殺を遂げた小学校校長があったほどの時代なので、大助の父作之進は直ちに議員を辞職し、自宅の門には青竹を結んで閉門の形式を採り、自ら食を減らして死期を早め、大助が処刑されてから半年後に死去した。


中学時代までの大助は父の影響で忠君愛国の当時で言うと立派な少年であったが、山口県出身の田中義一陸相が帰省した際、小中学校を休校にして生徒の閲兵を行ったのに憤慨して、ガラっと180度思想を変えたと供述している。
大助は中学卒業後は四谷の下町に下宿して予備校に通ったが、貧民の生活に同情しこの頃から社会主義・アナーキズムに関心を持ち始め、早稲田の高等学院に入学したが、1年後には学校がつまらなくなって退学している。

その後、幸徳秋水の大逆事件にカンする文献を読んだり、メーデーに参加して官憲の暴圧ぶりを肌身で感じたりしたが、大震災のどさくさに紛れて憲兵隊がが大杉栄を殺害したこと、亀戸警察署で社会主義の労働者数名が殺されたことに憤激して、
「絶対神聖とみなして尊信おくあたわざる皇室に対してテロリズムを遂行するものである」

その手記に心境を述べている。


さて、こうした憤慨は難波大助ひとりのものではなく、大杉門下の若いアナーキストたちはギロチン社を結成し、やはり摂政宮暗殺などを企てていたが、一足早く虎ノ門事件がおこったのである。
またギロチン社は、翌24年に大杉事件当時の戒厳司令官だった福田雅太郎大将を狙撃し、これも未遂に終わっている。


虎ノ門事件は大逆罪として最初から大審院で審理され、政府も検察当局もなんとか大助を反省させ、自己の行為が誤りであったと認めさせようとつとめた。それが失敗すると今度は大助を精神病者にデッチあげようとした。
日本人として皇室へ危害を加えるということは、まさにありうべからざるものという観念を、なんとか作ろうとしたわけである。
大助の社会主義への研究もさほど深いものではなかったし、当時の社会主義者との交友もほとんどなかったが、最後まで頑として自己の信念を貫き通した。
共産主義、社会主義者に言わせればまさに神様のような存在だろう。
(私から言うと敵なのだが・・・(^^;)
死刑の判決が言い渡されると大助は
「日本無産労働者、日本共産党万歳、ロシア社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インターナショナル万歳」
を三唱し、まもなく処刑された。

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